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オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その11

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その11
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こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その11を紹介します。

おかえんなさい、ラブマネさん その11

おかえんなさい、ラブマネさん

 

恋愛保険の相談窓口となる恋愛支援専門員(ラブマネージャー)の青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。

登場人物の紹介

影沼洋一かげぬまよういち・・・美鷹恋愛支援センターに勤務する新人ラブマネージャーであり、本作の主人公。

野山愛子のやまあいこ・・・影沼洋一と同棲中の交際相手。

花岡百永美はなおかもえみ・・・影沼洋一が担当する女子大生の利用者。

富樫烈久とがしたけひさ・・・花岡百永美の交際相手。

大空夏樹おおぞらなつき・・・影沼洋一が担当する金髪ギャルの利用者。

坂本浩介さかもとこうすけ・・・大空夏樹の交際相手。

濱崎極はまさききわむ・・・影沼洋一が担当する定年退職した男性利用者。

濱崎弘子はまさきひろこ・・・濱崎極の妻。

山田直也やまだなおや・・・影沼洋一が担当するオタク青年の利用者。

中谷舞なかたにまい・・・靴屋『エムメス』の女性店長。

四谷高夫よつやたかお・・・美鷹恋愛支援センターの所長。

一ノ瀬友子いちのせともこ・・・影沼洋一の世話を焼く中年上司。

六本木美加ろっぽんぎみか・・・影沼洋一の先輩ラブマネージャー。

新田貴彦にったたかひこ・・・元諏実高校野球部の男性。

新田伸枝にったのぶえ・・・新田貴彦の妻。

前回までのあらすじ

烈久の暴力はやむことなく、痛めつけられながらも百永美は勇気を振り絞り、洋一へ助けを求める。急いで駆けつけるが、執拗に殴られ、瀕死の状態だった。
烈久と対峙することとなり、身を挺して、百永美をかばう洋一。
救われた百永美は、洋一に対して想いを打ち明ける・・・

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三年前 十月二十八日 水曜日

アパートに到着する頃には、すでに陽は沈んでいた。手すりを握り、岸壁をよじ登るかのように一歩一歩と階段を踏み上げる。慣れない現場実習に洋一は疲弊していた。玄関扉の魚眼レンズから部屋明かりが漏れている。洋一は首を傾げた。部屋の電気を消し忘れるなんて初めてのことだ。

扉を開くと、奥からテレビの音がする。洋一は息を殺した。さすがにテレビまで付けたままとは考えられなかった。誰かいる、そう思った。とっさに玄関に立て掛けた自転車の空気ポンプを手にして身構える。物音がしないよう靴を脱ぎ、忍び足で歩く。テレビにまじり、ガサガサと何かを漁る音がした。強盗か。冷汗が額に滲む。動悸が激しくなる。恐る恐るリビングを覗き込んだ。

そこにいたのは野山愛子だった。
「野山さん!」
「おかえんなさい、ラブマネさん」

呆然とする洋一を余所に、愛子は袋から煎餅をつかみ、豪快にかじりついた。胡坐をかき、まるで我が家のように寛いでいる。
「どうして野山さんがいるのですか」
「この前、ただいまする相手がいなくて寂しいって言ってたからさ」

先週の食事会での会話を振り返る。
「いや、それを言ったのは野山さんの方じゃないですか。そもそもそういう意味ではなく、どうやって部屋に侵入したんですか」
「侵入って人聞きの悪いこと言わないでよ。いやんなっちゃう」彼女は窓を指した。「そこからよ」

「ここ三階ですよ」
「電信柱をよじ登ったの」
「なんて無茶なことを」洋一はずり落ちる眼鏡を戻した。
「へっちゃらよ。ちっちゃい頃から木登り得意だったもん。それよりアパート探す方がよっぽど骨折れたわ」愛子は紙をひらひらさせた。
それは住所を説明するため洋一が書いた地図だった。

「さってと。目的は達成したし、あたしはこれにてドロンするわね」彼女は忍術でも使うように手を組み立ち上がった。
「え? 帰るんですか」
彼女は不思議そうに首を傾げると「当たり前じゃない」とベランダに向かい、裏返っていたスニーカーを足でひっくり返した。
「あ……あの。せっかくですから夕飯でも食べていきませんか」
彼女はぱちくりと瞬きをして大きく頷いた。

冷蔵庫には白米と塩鮭、作り置きの煮物、ピクルス、後は野菜があるだけだ。レンジで温めつつ、なるべく新鮮そうな野菜を選別し簡単なサラダを作った。それらを食卓に並べると、いただきますと手を合わせ、彼女はもりもりとがっつき始めた。

「よく食べますね」みるみるうちに無くなるおかずに目を奪われ、箸が止まる。
「なんにも食べてなかったからね、お腹空いてたの」
「さっき煎餅食べていたじゃないですか」
「煎餅はオヤツだから別でしょ」

あらかた器は空となり、洋一は満腹となった。ただ、愛子はさも物足りない様子でピクルスの液をスプーンですくってはチビチビと嘗めていたので「良かったら焼きそばくらいなら用意できますけど」と訊ねてみた。彼女は待っていましたとばかりにはしゃぐ。手早く炒め、差し出すや必死にむさぼる。青のりを頬につける彼女を見つめていたら、これを食べ終えたら帰ってしまうのだと思った。

口が勝手に開いていた。
「なにか言った?」
愛子のきょとんとした視線とぶつかり、先ほどの冷汗と動悸が舞い戻ってきた。勇気を振り絞って声にする。

「明日も僕の帰りを待っていてくれませんか」
彼女はあからさまに怪訝な表情となった。期待が後悔へと一変した。言わなければ良かった、と思った。
「明日も電信柱よじ登らせるつもり? 勘弁してよ。それこそ不審者だって通報されちゃうから。いくらなんでも、あたしだってそれくらいの常識あるんだから」

「え? いや、今度は玄関から入っていただいて構いません。危ないですから」
「玄関開けておくつもり? しょっちゅう忘れるあたしが言うのもなんだけど物騒よ」
「玄関は施錠します」
「じゃあ、やっぱりベランダからしか入れないじゃない」
「鍵を預ける、という意味です」
「あのねえ、付き合ってもないのに鍵なんか預かれるわけないでしょ」

「だったら……いや。だから、その……交際して、くれませんか?」
愛子は状況をのみ込めず、ぽかんとしていた。
「野山さん、僕と交際してください」
頬が赤く染まり、それを隠すように彼女はそっと顎を引いた。

十一月二十八日 月曜日 その二

「おかえんなさい」
病院から帰宅すると愛子がいた。思わぬ出来事に驚きつつも頬が緩む。痛みが走るが、それは喜ばしい痛みだった。

「どうしたの、その顔?」洋一が説明に戸惑っていると「どうせ転んだんでしょ」と決めつけていた。
予想通りの反応に心を和ませながら「まあね、そんなところだよ」と言った。
「眼鏡まで割れちゃって、まるで殴られたみたい」彼女は能天気に笑う。

「この前は言い過ぎた。ごめん」
「もういいって」
「じゃあ……戻ってきてくれるんだね」
「その話は後にしよ」
彼女の表情に陰りが垣間見え、胸の中で不安感が広がっていく。

「夕食まだでしょ。あたしハンバーグ作ったんだ。食べてよ」
複雑な心境を抱きながら腰掛けると、皿に乗ったハンバーグと呼べるのか石炭の如く黒焦げた肉の塊とフォークがテーブルに置かれた。この外形は確かに彼女の手作りに違いない。フォークで突っつくと亀の甲羅のように硬かった。歯が折れないだろうかと心配しながらも突き刺し、口へと運ぶ。咀嚼する。

「どう?」
「普通ハンバーグってフォークを刺したら肉汁が、じわりと滲み出てくるものじゃないかな。これは明らかに焼き過ぎだね」
正直に言った。

「やっぱり」愛子は笑っていた。
「やっぱり、って」
「自分でわかってんのよ、なんかおかしいなって。でもこれが精一杯」

皿を引き下げようとしたので、急いで残りを口に放り込んだ。愛子は「無理しなくていいわよ」と申し訳なさそうに言った。
「無理なんてしていないさ」
「不味いんでしょ、お腹壊しちゃうよ」
「嫌味かい? 不味いなんて言ってないじゃないか。それに独特な食感と風味が妙に中毒性がある」
「洋一こそ嫌味?」
「捉え方しだいだよ」

彼女はカレンダーを見つめた。「これでもこっそり練習してたんだ。いつも甘えてばかりだから、今度の記念日は洋一の好きなハンバーグ作ってあげたいな、ってさ。結果は見ての通りだけどね」
嬉しさの反面、他の男に手料理を食わした嫉妬心はぬぐいきれなかった。

「じゃあ、あたしそろそろ失礼するね」
テーブルを撫でるかのように、そっと何かを置いた。それはアパートの合鍵だった。
「本当はこれを渡すだけのつもりだったの。でもね、ここに来るの最後かと思ったら、どうしても手作りのハンバーグ……洋一に食べてもらいたかったの」
「最後だなんて……」

「さよなら」
その一言は入り込んだ砂のように耳奥でざらつく。
「待ってくれ。ちゃんと話し合いたいんだ」
踵を返す愛子の腕をつかんでいた。

「話し合うことなんてない。あたしたち別れたんだよね。出ていけって言ったよね」
「いや、あの時は気が昂っていたというか、ものの弾みというか、とにかく本心じゃなかった。別れたいなんて思ってないんだ、信じてほしい」

「もう遅いよ」
「どうして遅いことがあるんだ。言い過ぎたのは認めるよ。ただね、僕以外の男性と会っていたり、手料理を振る舞ったことがつらかったせいなんだ。つまりそれはキミに対して恋愛感情を抱いているからであって」
愛子は瞼を閉じて、微笑んだ。「そっか、そんな風に想ってくれてたんだ」

が、瞼を開くと、そこにあったのは愁いを帯びた瞳だった。
「もう遅いんだよ、別れなきゃいけなくなっちゃったの」
「どうして?」洋一の声が掠れる。
「あんなことになるなんて、あたし思わなかったの」
「一体なんのこと言っているんだ」

暗く重苦しい雰囲気が漂う中、彼女は顔をくしゃくしゃにし、唇を震わせ、絞り出すように言った。
「ごめんね……ヤっちゃったの」
頭が真っ白となる。ヤっちゃった……何を? 何を、だって。理解できるだろう。愛子はヤっちゃったのだ。何とも無慈悲な言葉に苛まれながら洋一は訊ねた。

「貴彦って人とかい」
「うん。そもそも、あたしがここに呼んだからいけなかったの」
え、と洋一は絶句した。

「まさか、ここで?」
彼女は静かに頷いた。
「なんということだ。ここでヤっちゃったとは……」
口惜しそうに愛子は唇を噛みしめる。「貴彦とならあんなこと絶対にならないと思ってた。それに一人じゃ不安だったの。貴彦はプロだし」
え、と洋一は絶句した。

「プロだって? 待ってくれ、待ってくれ。もう訳がわからないよ。プロってことは、いかがわしいビデオの男優ということかい」
「いかがわしいかな。貴彦はイメージビデオみたいなもんだって言ってるけど」
「その手の男優はプライベートでは淡泊だと耳にしたことはあるけれど、絶対に安心なんてことはないだろうに。まさか! 勧誘されたりしてないだろうね」
「実はね、出演しないかって誘われてるの」
え、と洋一は絶句した。

「もちろん断ったんだよね?」
「一度はね。自信ないし、あたしみたいなのが出ても誰も喜ばないって。貴彦は素人ってのがウリなんだって言い張ってたけどね。でもそれとは別で考えたの。これは自分を変えるチャンスかもしれない。だから出ててみようと思ってる」

「やめてくれ」洋一は愛子を抱きしめて叫んだ。「そういった業界を否定するつもりはない。恥ずかしながら僕だって何度もお世話になったことある。だけど、キミのあられもない姿が世間に晒されるなんて僕には耐えられない。そんなことになったら……ああ! 僕の精神は崩壊してしまう」
腕が背中へとまわる。胸の中で愛子はこくりと頷いた。
「よくわかんないけど、わかった」

二人は強く身体を重ね、しだいに息遣いが同調していく。愛子と貴彦は契りを交わした、そのことは一生忘れないだろう。時が経つにつれ、徐々に薄らいでいくだろうか。彼女を想っている限りこの苦しみは永遠と続くように思えた。そして、それは彼女も同じことだ。
それでも、ともに歩んでいきたい。

「僕との交際を続けてくれないか」
「いいの?」
「いいんだ」
道に迷った少女が家族と再会できたように、愛子はうっすらと涙を浮かべていた。

「ごめんね。あんなに大切にしてたのに……」
「僕の方こそ悪かった。もっとキミのことを大切にしていたらこんなことには……」

「ごめんね。あんなに丁寧に扱ってたのに……」
「僕の方こそ悪かった。もっとキミのことを丁寧に扱っていたらこんなことには……」

「ごめんね」
「僕の方こそ悪かった」

「ごめんね。あんなに焦がしちゃって」
「僕の方こそ悪かった。もっとキミのことを焦がしていたら……ん、焦がす?」

「うん、フライパン」
「フ、ラ、イ、パ、ン?」
二人はぽかんと見つめ合った。

「なんのことを言っているんだキミは」
「なにってさっきから謝ってんじゃないの。フライパン焦がしちゃったこと」
コンロにあるフライパンが地獄の業火を浴びたように黒ずんでいる。形状から察するにペラピットのフライパンだった。

「貴彦と一緒なら失敗することないと思ってたの。でも、途中で伸枝先輩から連絡があって……」
「伸枝? おいおい待ってくれ。意味不明だ。ちゃんと順を追って説明してくれないか」

「人が真剣に話してんのに聞いてなかったの? 一人じゃ不安だったから貴彦を呼んでハンバーグ作りを手伝ってもらってたの。そしたら貴彦の奥さんの伸枝さん、つまりあたしの義理のお姉さんから電話があったわけ。二人は別居中で音信不通だったんだけど考え直して戻って来ることになったの。そんなこんなで貴彦はハンバーグのことなんてそっちのけで帰っちゃった。で、ハンバーグとフライパンは案の定」

「伸枝さんが義理のお姉さんってことは貴彦さんってもしかして」
「あたしの兄貴」
「キミは一人っ子だって言ってたじゃないか」

「あれは……嘘なの。兄貴がいるってのが本当」愛子は本棚から一冊の本を取り出してきた。以前見たことのある爽やか好青年の写真集レシピだ。彼女は名前を指さした。そこには新田貴彦監修とあった。

「苗字が違うじゃないか。芸名か?」
「婿養子なの。結婚する時の条件でね、伸枝さんのとこ家柄厳しいから」
「プロってつまり料理研究家のことかい。それがどうしていかがわしいんだ」
「あたしはそんなこと一言も言ってない」

「じゃあ勧誘の話は一体なんのことなんだい」
DVDが付録となっており、自信満々にオタマを掲げる彼の背後で女性が万歳していた。
「その女の人は料理がヘタッピな素人さんなんだけど、このレシピを使えばすぐ上達するって内容なのよ。売れ行きも良くてシリーズものを企画してるんだけど、その役あたしがやってみないかって誘われてんのよ」

比較対象として上達前の料理が公開されるようだった。早とちりだとわかるや、全身の力が抜け、へたり込んだ。
「そもそも、どうして嘘をついてたんだ。始めから本当のこと言ってくれたら、こんなややこしいことにはならなかったと思うんだ」

愛子は気まずい表情で頭をがりがりと掻いた。「知られたくなかったの。兄貴が売れっ子の料理研究家なのに、妹のあたしが料理ひとつまともにできないなんて恥ずかしいじゃない」
「もっと恥ずかしいことたくさんしてるだろうに。それにフライパンなんかで別れることない」

「だって洋一すごく大事にしてたし。それに……約束したから」
「まあいいよ。安心したらなんだかお腹がすいてきた。ハンバーグのおかわりないかな」
テーブルにドンと置かれた皿には、黒焦げハンバーグがピラミッド状に山盛りとなっていた。
「遠慮は無用よ」
洋一の口からゲップが洩れた。

 

その夜、二人は床に就いた。
「リストバンドしてるんだね」
暗がりの中、愛子がそう言った。腕につけたリストバンドを月明かりにかざしてみると、シルエットが浮かび上がる。

「気に入らなかったんでしょ?」
「そんなことない。ただ僕には似合わないと思ってさ」
「本当……プレゼントしておいてなんだけど全然似合ってない」冗談めかして笑い、彼女も腕を上げる。「ジャーン、実はお揃いなんだ」

俗にいうペアルック。まさか我が身に振りかかろうとは思いもよらなかった。二人並んで街道を歩く姿を想像するだけでうんざりした。とんだ恥晒しだと思った。が、それを彼女が望むなら受けて立とうじゃないかとも思った。

「色違いだけどわかる?」彼女は訊ねた。
まじまじと見つめる。暗闇に目が慣れてきていたが色まで判別できなかった。それよりも深紫色のリストバンドの行方がふと気になった。

「いつもしていたのはどうしたんだい?」
「もう捨てた」
「どうして? 大事にしていたじゃないか」
「うん……でもいいの。これあるから」
そうか、と洋一は呟いた。

ぽつりぽつりと言葉を交わしていると、愛子の返事がピタリと止んだ。
「あたしのことどう思ってる?」
ピッチングマシンから放たれたボールみたいにストレートな質問だった。微動だにできなかったあの時と同じように洋一は質問を見送っていた。

「どう思ってる?」愛子は再び訊ねた。
「どうって……わかるだろう」
「わかんないよ。ねえ、どう思ってんの?」
彼女がこんなこと言うのは初めてだった。洋一は戸惑った。

「影沼洋一は野山愛子を愛しています。世界中の誰よりも」
「どっかで聞いたことある」
「オー、マイ、リトルガール。こんなにも愛してる」
「お願い。真面目に聞いてるの」愛子の声は震えていた。
洋一は言葉を失った。

愛している……そんな一言でまとめられるほど単純じゃない。大学論文みたいに数ヶ月と熟考して何百枚もの原稿にしないと伝えられない。それだって、きっと心の中の一割も表現できない。宇宙の真理を解き明かすに匹敵するほど複雑で難解なんだ、愛子への想いは特別に。

彼女の指先が手にふれた。
「言葉じゃなくたっていいの」

洋一が手を握ると、彼女もまた握り返してきた。洋一はさらに強く握りしめる。手の甲は貝殻のように硬く、マメだらけの掌から彼女の熱が伝わってくる。心臓の鼓動までも伝わってきそうだ。身を寄せると愛子の吐息が耳をくすぐる。それはとろけるような甘いラブソングというよりも、秘密基地で囁かれる内緒話に似ていた。窓から月光が降り注ぎ、色彩を失ったモノクロ世界のようだ。彼女の白黒の髪にふれる。べたつき、汗と油が入り混じった匂いがこびりついていた。

愛子と愛子への想いを抱いて、どれくらい経つのか。時間が停止、いや、凄まじい速さで進んでいるかの、まるで時の概念が通用しない異空間に迷い込んだ錯覚におちいる。色なき世界でただひとつ彼女の唇だけが色彩を帯びて見えた。彼女は瞼を閉じていた。

洋一は顔を近づける。
彼女の唇が弧を描いた。笑った?

「ハンバーグ……子どもみたい」そう寝言を言う。
いつの間にやら彼女は眠っていた。
洋一は愛子の頬へと唇を寄せた。夢が醒めてしまわないように、そっと。

十一年前 一月一日 土曜日 その二

蜻蛉神社の境内は人波で溢れかえっていた。
「おうおう、懐かしいな。ガキだった頃にここ来たの憶えてるか? 今もガキだけどよ」
「忘れたよ」
屋台が陳列し、その片隅でヘルメットをかぶった二人の親子が、ぼそぼそとした会話とともに白い息を洩らしていた。

「いいか、ヘルメットしっかりかぶって顔隠せよ。監督には高校生って説明してあんだからな。高校生らしくするんだぞ」
洋一はいかにも不満げな顔つきで誘導棒の電源を押す。赤色の点滅に合わせて薄ら笑いを浮かべる父が照らし出される。

「なんだまだ怒ってんのか。何度も謝ってるじゃねえか。監督に時給弾むって言われて断れなかったんだよ。俺だってこんな日に付き合わせて悪いと思ってるさ。なあ、機嫌直せよ」と手をすり合わせた。

「僕は構わないけどさ、謝るなら母さんに謝りなよ。今月の仕送りまで競馬でスっちゃって、どうするつもりだい。そんなんだから母さんに逃げられたんだよ」
煙たそうに首筋を掻いた。「まだ中坊だってのに母さんに似てしっかりしてるよ。将来が楽しみだ」

手渡されていた警備配置図で現在地と担当箇所を確認する。「僕、あっちだから」と踵を返すと父が呼び止めた。
「これ持ってけや」
彼が差し出したのは蜻蛉神社の御守だった。

「なにこれ?」
「御守だよ。御守」
「見ればわかるよ。どうしたの急に」
「蜻蛉神社の伝説知らねえのか」
洋一が首を振ると、父は自慢げに黄ばんだ歯を零した。

「なんでもこの蜻蛉神社で願懸けをした御守を、八年肌身に離さず持っていると願いが叶うそうだ」
「八年間って長いね。そんなの神社の経営戦略に決まってるじゃないか。踊らされてみっともない。こんなのいらないよ」
洋一が突き返すと父は鼻息を荒げて「何時間も並んでやっと手に入れたんだぞ」と拒んだ。

「大袈裟だね。せいぜい数十分でしょう」
「バッキャロウ! とにかく、即行で売れ切れちまうプレミアもんなんだよ。有難くちょうだいしとけっての。洋一も願い事のひとつやふたつあるだろうが」
「僕がそういった迷信の類(たぐい)を信じないってこと知ってるだろう」

「そういうところも母さんそっくりだ」御守を強引に押しつけて人混みに割り込むと、「じゃあ、また後でな」と迷惑がる周りに構わず誘導棒を振った。
洋一は両手を見つめ、「願い事……」と口にする。すぐさま頭を振り、警備場所へと向かうことにした。

 

ようやく長蛇の列から解放された愛子と貴彦の手には御守が握りしめられていた。
「やっと買えたね」愛子は野球帽の鍔を押し上げた。
「俺たちラッキーだぞ。もう残り少なかったから後ろの奴等は買えないだろうな」貴彦は憐れみと優越感の入り交じった目で行列の後方を見ていた。

はぐれないように貴彦の後を追いながら拝殿へと進む。賽銭箱の周囲は参拝客でごった返していた。肘が顔にあたったり、スニーカーを踏みつけられながらも準備していた五円玉を投げ入れる。愛子は掌で御守を挟み、願い事をした。

「貴彦はなにをお願いしたの?」
拝殿から離れ、一息ついたところで訊ねた。御守はハーフパンツの尻ポケットにしまっておく。
「なにって……」貴彦の片眉がぴくりと跳ねる。
「隠さなくてもわかってるって。野球選手でしょ」
「そ、そうだよ。野球だよ。決まってるじゃないか。そういう愛子こそなんなんだよ」

「内緒」
「なんだよ、もったいぶって。どうせ新しいグローブがほしいとか、そんなのだろう」
「ぶー、ハズレ」愛子は唇を尖らせる。
「わかった。これか」身につけていた紫のリストバンドを指した。

「ハズレ、ハズレ」
「でも似たようなことだろ。愛子も来年は中学生なんだから、もっと女の子らしくなりたい、とか願ったらどうだ」
愛子は、ぽかんとした。徐々に赤面していく。

「え、もしかしてアタリ?」
「もう! うるさい、うるさい」大笑いする貴彦をひっぱたく。
「いてて。愛子の選択は正しい。未来の旦那のためにちゃんと女らしくなった方がいい」

焼きそばの屋台を発見するや膨らんでいた愛子の頬は途端に萎み「ねえ、焼きそば食べようよ」と瞳を輝かせた。
「そうだな。清楚な女の子になると焼きそば食べられなくなるからな」
「なんでよ」
「いいか。焼きそば食べると青のりが歯にくっつくだろ。女らしい人ってのはそういうことまで気にするんだ」
「そんなの関係ないでしょ。あ、クレープもある」
目移りさせていると、貴彦は財布の中身を確認して「クレープも食うか」と言った。

両店とも列をなしていたので、お金を受け取り別々に並ぶことにする。クレープの甘い香りを吸い込みながら待ちわびる。背伸びして、せっせとクレープ生地を丸める売子を眺めていると奥の木々が揺れ動いた。風も吹いてないのにどうしてだろうと目を凝らしていると、木々ではなく人影であることに気がつく。興味本位でそろそろと近づくと振袖姿の少女が三人組の男に囲まれていた。少女の怯えから知り合いでないことは明白だ。耳を傾ける。何かしら因縁をつけられているようだった。

少女が青いジャンパーを着た男の足を踏みつける。やった、とガッツポーズをとるのも束の間、少女は頬をぶたれた。かっと頭へ血が昇る。愛子は大股で歩み寄り、青ジャンパーの股間を蹴りつけてやった。男は股間を押さえながら悶絶する。

二人ともニヤニヤと口元を緩ませていたが目は笑っていない。「なんだよ、お前」
「あんたらこそなにやってんの。女の子一人相手に三人がかりで情けない」

赤セーターの男が顔まで真っ赤にして殴りかかってきた。身を縮めてかわし、顎へ掌打を突き放つ。バック転に失敗したように倒れる。二年間通っていた功夫がこんなところで役立つとは思わなかった。男は顎を押さえつつ、矛先を少女に向けた。愛子はすかさず馬乗になり、戦意がなくなるまで拳骨を与え続けた。

残りは豹柄トレーナーの男一人だった。彼は勝目がないと悟ったのか降参とばかりに両手を上げ後退りする。

「待てよ、ボウズ。俺たちが悪かった」
「ぼう、ず?」愛子の眉間に皺が刻まれる。
「なんだよ。もう怒るなって。ほら謝ってるだろう? 許してくれ、ボウズ」

みるみるうち般若へと変貌する愛子に彼は喚き声を上げ一目散に逃げ出した。他の二人もそれに続く。
「こら逃げんな! もういっぺん言ってみろ」

追いかけながら境内を駆け巡っているうちに三人組を見失ってしまった。愛子は立ち止まり息を整える。諦めて貴彦の元へ戻ろうとするも自分が今どこにいるのかわからなかった。石畳、屋台、燈籠、木々と記憶を辿りつつ辺りを見渡すが、さっぱり見当がつかない。貴彦と一緒に通ってきた気もするし、そうでない気もする。

不安感を募らせ、とぼとぼと歩き続けた。脚が重いし、爪先が痛い。貴彦とはぐれて一時間以上経つのではないか。行き交う人々の笑い声や屋台から発せられる威勢のよいかけ声が徐々に遠退いていく。自分の周りだけ見えない壁で囲まれている気分だ。

少し離れたところに若いカップルがいる。優しそうなお姉さんだった。勇気を出して彼女に道を訊ねよう。決心して歩み寄ると、横切ってきたおじさんに突き飛ばされ尻餅をついた。彼はそれに気づきもしない。愛子は慌ててカップルを探すが人混みへと紛れてしまっていた。

寒さに震えながら片隅で膝を抱えていた。吐息をあて冷たくなった指先を温める。仄かに灯る燈籠を眺め、我が家のストーブを連想した。このまま帰ることができなかったら、一体どうなってしまうのか。凍えて死んでしまう、そう思った。マッチ売りの少女みたいに。

家に帰りたいと切に願う中で、愛子はハッと閃いた。そうだ御守がある。緊急事態なのだ、神様も八年待たずとも叶えてくれるに違いないと尻ポケットに手を突っ込んだ。が、入れたはずの御守がない。ポケットをひとつひとつ探るがどこにもなかった。

落としたんだ。
途端に涙が溢れてきた。膝に顔をうずめ、ひくひくと声が洩れる。

「どうしたの」
声がした。
涙をぬぐいながら顔を上げるとヘルメットをかぶった眼鏡のお兄さんが覗き込んでいた。どうにもしゃっくりが止まらず返事ができないでいると「キミ、迷子になったの?」と彼は訊ねてきた。愛子はこくりと頷いた。

お兄さんは黙って隣にしゃがみ込んだ。しばらくして愛子が泣きやむと静かに語りかけた。
「家族と一緒に来たのかな」
「うん……兄貴と」
「どこではぐれたのか、わかるかい」
愛子は首を振った。

「なにか目印になるようなもの憶えてないかな? なんでもいい。建物とか屋台とか」
「クレープと焼きそば屋」
彼はおもむろに取り出した紙を指でなぞり、眼鏡を押し上げた。独り頷くや「立てるかな」と手をさしのべる。愛子は躊躇いながらもその手にふれた。とても温かかった。そのまま手を引かれ歩き出した。

クレープと焼きそばの屋台が見えてきた。そのすぐ傍で貴彦の姿を発見し、安心感が胸に広がる。
「愛子、どこ行ってたんだ。捜したぞ」血相を変えた貴彦が駆け寄ってきた。

「あなたがお兄様でしょうか」
彼のヘルメットと誘導棒で察しがついたようで貴彦は頭を下げ感謝を述べた。
「では、僕は失礼します」彼は踵を返した。

「さあ帰ろうか。母さん心配してるぞ」
貴彦が握っていた御守を見て、愛子は浮かない顔となった。
「どうしたんだよ」
「御守を失くしちゃったの」
彼は困った声を上げながらも「しょうがないな。これやるよ」と言う。
「それは貴彦がお願い事しちゃったんでしょ。そんなの意味ないよ」

石畳にスニーカーを擦りつけ駄々をこねていると影が視界を遮った。見上げると、さっきのお兄さんがそこにいた。
「僕のをあげる。大丈夫、まだなにも願ってないから」
差し出した掌にあったのは蜻蛉神社の御守だった。
あまりの出来事に呆然としていると、お兄さんは愛子の手を包み込むようにそれを握らせ、そして走り去っていった。

再び拝殿へと足を運び、手を合わせた。瞼を閉じて強く願った。
帰り道で貴彦は言う。「二度も願ったんだから、きっと叶うな」
「ううん、違うお願い事にしたの」
「なんだよ。もう諦めたのか」

「うん……」うつむいた顔を上げ、愛子はにかりと笑った。「焼きそば食べられなくなるのやだもんね」
貴彦は嬉々として「そうだ、気にすんなよ。愛子は愛子のままでいいんだよ」と肩へと腕をまわした。

彼が手首に嵌めていたリストバンドを見て、グッドアイデアを思いついた。
「ねえ、それちょうだい」
不思議そうに貴彦は訊ねた。「別にいいけど、なにに使うんだよ?」
「御守なくさないようにね、中に縫い込んでおくの」

『おかえんなさい、ラブマネさん』その12へ続く

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その12
オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その12オリジナルのラブコメ小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その12。最終話。百永美に素直な気持ちを伝え、洋一がアパートへと戻ると、別れたはずの愛子が待っていた。誤解がとけると、二人は眠りにつく。その夜に愛子が見た夢、それは蜻蛉神社で迷子となったところを、眼鏡をかけたお兄さんに助けてもらった十一年前の出来事だった・・・...