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オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その6

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その6
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こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その6を紹介します。

恋愛保険の相談窓口となる恋愛支援専門員(ラブマネージャー)の青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。

おかえんなさい、ラブマネさん その6

おかえんなさい、ラブマネさん

 

登場人物の紹介

影沼洋一かげぬまよういち・・・美鷹恋愛支援センターに勤務する新人ラブマネージャーであり、本作の主人公。

野山愛子のやまあいこ・・・影沼洋一と同棲中の交際相手。

花岡百永美はなおかもえみ・・・影沼洋一が担当する女子大生の利用者。

富樫烈久とがしたけひさ・・・花岡百永美の交際相手。

大空夏樹おおぞらなつき・・・影沼洋一が担当する金髪ギャルの利用者。

坂本浩介さかもとこうすけ・・・大空夏樹の交際相手。

濱崎極はまさききわむ・・・影沼洋一が担当する定年退職した男性利用者。

濱崎弘子はまさきひろこ・・・濱崎極の妻。

四谷高夫よつやたかお・・・美鷹恋愛支援センターの所長。

一ノ瀬友子いちのせともこ・・・影沼洋一の世話を焼く中年上司。

六本木美加ろっぽんぎみか・・・影沼洋一の先輩ラブマネージャー。

新田貴彦にったたかひこ・・・元諏実高校野球部の男性。

新田伸枝にったのぶえ・・・新田貴彦の妻。

 

前回までのあらすじ

偶然出会った花岡百永美に励まされ、影沼洋一は記念日のプレゼントを準備する。
野山愛子をデートに誘い、帰り際にプレゼントを渡すことに成功。
しかし、仲直りしたのも束の間、愛子の携帯電話が鳴り響き、素性の知れない相手とのやりとりに、洋一は不信感を募らせていく・・・

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十一月三日 木曜日

午前十時半。デスクの端は領土を守る外壁のように多量のファックス用紙が山積みとなっていた。洋一のデスクだけでなく一ノ瀬、美加も同様だった。不動の四谷所長もこの週ばかりは指先を動かしていた。
「もう、うんざり」一ノ瀬はトドのようにデスクにうなだれる。
「僕は実績計算嫌いじゃありませんけどね」

山積みになったファックス用紙は実績と呼ばれる。下旬から月替わりにかけて、カラオケ店や旅行店など各々の恋愛保険事業所が提供したサービスを点数化し、集計したものが送られてくる。予定は恋愛支援専門員が組むわけだが、その通りにいくことはまずなく、実績と照らし合わせ修正をかけていくのだ。

利用者ごとにサービス利用日、時間、内容を保険請求ソフト『ワイズメン』に打ち込む。最終的に給付管理票として国民健康保険団体連合会に伝送するのだが、点数に誤りがあると返戻となり給付金がおりない。特に加算は要注意だ、事業所から送られてくる実績が間違っていることすらある。例えば飲食店に設けられたカップルシートを利用したとすると『一対式座席加算Ⅰ』が付加されるのだが、これが映画館となると『一対式座席加算Ⅱ』となり点数が異なる。利用者一人に対して少なくても十、多いと五十にも及ぶこれらの作業をこなさねばならない。

「こんなの事務員を雇ってやらせればいいのに」一ノ瀬は文句を垂らしながらも半身を起こし、モニターに向き直った。
電話が鳴った。洋一は積んだ実績の隙間から受話器をとる。
「おはようございます、美鷹恋愛支援センター影沼です」
『か、影沼さんですね!』

声の主は山田直也やまだなおやだった。洋一の担当する利用者の一人である。
「はい、山田さんですよね。どうされましたか」
『す、好きな人ができたんです。な、なんとかしてください』
またか。山田直也、三十二歳、要支援度三、独身。結婚願望はあるのだが相手がいないこと三十二年。結婚相談所を仲介してお見合するたび、相手に一目惚れしアタックするものの、ことごとく玉砕している。

『こ、こ、今度こそ運命の人に。め、巡り合えたんです』
あなたの人生には一体何人の運命の人が現れるのだ、と喉まで出かかった言葉をぐっと堪えた。
『ああ、ボクはどうしたらいいんだ。今日そ、相談にのってほしいんです!』直也は語気を荒げる。
「わかりました。何時くらいにおうかがいしましょう」
『今日は仕事なんです。昼休みにいつもの喫茶店で、お、落ち合いましょう』
仕事中に何を電話しているのだ。呆れつつ受話器を置くと、直後見計らったかのように電話が鳴った。

受話器を取る。「おはようございます、美鷹恋愛支援せ……」
『ヌマッチ!』夏樹の声だ。『コウちゃんが嘘ついてたの。わたし、もう無理。もうやってけない。もう死んでやる!』
「大空さん、どういうことですか」
『よせ』浩介の声が聞こえる。『包丁なんか持ってどうするんだ。やめろ!』

通話は途絶えた。ジャケットを羽織り、ホワイトボードに外出マグネットを貼りつけ、マーカーで夏樹の名を走り書きする。
「出かけてきます」
「精が出るわね」一ノ瀬はのほほんと言った。

夏樹のアパートに駆けつけると、壊れたインターホンには目もくれずリビングへと上がり込んだ。そこには糸の切れた操り人形のようにして夏樹が仰向けに横たわっていた。ぴくりとも動かない。
「大丈夫ですか!」
抱き起すと、白いセーター姿の彼女の腹部が真っ赤な花型に染まっていた。まるで安らかに眠る幼子のように瞼を閉ざしていた。そんなと洋一は声を洩らし、胸に左耳を押しあてる。心臓の音が……

「なにやってんだ」
物陰に佇んでいた浩介が腕を震わせていた。
「なにって大空さんの心臓が……」心臓がドクンドクンと快活に躍動している。「あ、あれ?」もう片方の耳で再確認する。
「なにやってんの」
「一大事なんです。お静かに……ん」

浩介にしては高い声に顔を上げると、幼子だったはずの夏樹が般若へと変貌し睨みつけていた。
「人のオッパイすりすりして」彼女は手を振りかざす。「なにやってんのよう!」
強烈なビンタで洋一の眼鏡が宙に飛んだ。

事の発端はこうだ。
朝食にと夏樹はピザを焼いた。それを見た浩介の一言がいけなかった。「毎日ピザばっかり食べていると太るぞ」その言葉に彼女は、「この前はピザを食べてる仕草が可愛いって褒めてたのに。あれは嘘だったのね」と逆上した。「健康にもよくない、早死にする」そう彼がなだめるも効果はなく、「もう好きじゃないんでしょ。いいわよ、死んでやるから」と包丁でピザを八等分して全て平らげた、そうな。

「はい、どうぞ」
夏樹は例の如くパイナップルジュースを卓袱台に置く。洋一が目を凝らしていると「大丈夫よ。アルコール入ってないから」と言った。
「その血はどうしたんですか」
赤く染まった腹部を指すと、彼女は今気がついたのか「あっ、ケチャップ零しちゃった」と舌を出した。浩介が愛おしそうに小突く。

「なぜ倒れていたんです」
「ヨガポーズとってたの。ダイエットよ、ダイエット」
「呼びかけても反応がありませんでしたが」
「それだけナツは集中してたんだよ」浩介は腕組をして深く頷いた。「瞑想しながらやるとより効果的なんだ」

やれやれ。ジュースで喉を潤すと腕時計を見た。「そろそろ行かないと」
「どこ行くのよ」
「仕事です。待ち合わせをしてるんです」
アルコール入りを呑む彼は顔を火照らせ「仕事中だったのかよ。ジュースなんか飲んで油売ってちゃダメじゃねえか」と馬鹿力で肩を叩いてくる。
「でもさ昼休憩あるんでしょ。もう少しゆっくりしてけばいいじゃん」
「そうはいきません。恋愛相談は時を選ばず舞い込んでくるのです」

三日三晩荒野をさまよって、やっと発見した獲物に喰らいつく猛獣のように彼女は身をのり出した。「なになに、もしかして恋バナ? 詳しく聞かせてよ」と瞳を輝かせる。
「残念ながらお教えするわけにはいきません。個人情報にあたりますので。我々には守秘義務といって利用者さんのプライバシーを守る義務があるのです」
「なんだよ。けち臭いこと言うなよ」浩介は極上のタラコみたいな唇を突き出す。
「とにかく大空さんが無事で安心しました。では失敬します」

『ドッグ』の扉を開くと、からりからりとカウベルが鳴った。窓際のソファに麦わら帽子にスーツ姿の直也がいた。達磨のように元々の猫背をさらに丸め、豆粒ほどの細かなプラモデルパーツを凝視し接着剤を塗っていた。一見神経を研ぎ澄ませているようだが、クリームソーダが置かれたテーブルの下ではエイトビートを刻むかの貧乏揺すりが繰り広げられていた。

「お待たせしました」洋一は一礼し、対面のソファに腰掛けた。
「お、お、遅いじゃないですか」
言い訳することなく素直に謝ると、彼は付着したプラモデルパーツに息を吹きかけ、リュックサックへとしまった。洋一のオーダーを取りに来たウェイトレスが下がるのを待ち、「い、いえ、すみません。影沼さんこそ忙しいのに無理言って。で、でも早く相談にのってほしくて……ぼ、ボク運命の人に出会ってしまったんです」と、ぽっちゃりした頬を赤らめた。

「そうなのですね。先月のお見合いが実を結ばなかったので山田さんに合った結婚相談所を探していたところだったのです。それにしても、一人で結婚相談所を訊ねに行かれるとはおみそれしました。恥ずかしいからと抵抗する山田さんを半ば強引に連れ込んだ半年前が嘘のようです。見事な成長ですよ。それも内緒で! 真に喜ばしい限りです」振り返ると目頭が熱くなってきた。眼鏡を外し、ぶら下がる電球を見る。「ところで、お相手の方はどちらの結婚相談所からの紹介でしょうか?」
「ち、ち、違いますよ! ぐぐぐ偶然に巡り会ったんですよ」

な、な、な、なんと!
「通勤中の電車で度々乗り合わせていた人なんです。始めは、か、彼女のことをきれいな人だなって思うくらいの、た、例えるなら零式艦上戦闘機五二丙かのような目にするだけで満たされる、言わば憧れの存在だったんです。そしたら先日、ヨッパライが電車に乗り込んできたんです。近くに寄ってきたら嫌だなって目を伏せました。案の定、か彼女の隣にいた女子高生に絡みだして……その時のボクは、な、情けないことに嵐が過ぎ去るのを耐えるようにジッとしていたんです。でも視線を感じて顔を上げると、かか彼女が……気のせいだったのかもしれませんが、助けを懇願するようにボクを見ていたんです。そのまなざしに、ぼボク、もう我慢できなくなって思わず……」

どこかで耳にしたことのある内容だが、ほうと感心した。「そこで山田さんが助けたのですね」
「な、なに言ってんですか。そんなことできるわけないでしょ。違いますよ、その逆です。我慢できずにその場を離れようとしたんです。で、ですが、それが気に食わなかったのか、ヨッパライの矛先がボクに向いて、肩をつかまれちゃって、やめてくださいっていくら言っても全然離してくれなくて、それも、酔ってるくせにやたら力が強くて」
「どうなったんですか」呆れつつ、会話の途中に運ばれていたコーヒーを啜った。
「そしたら彼女が助けてくれたんです」
洋一はコーヒーを吹き出した。

「は、はっきりと注意されたヨッパライはバツが悪くなったのか、そそくさと逃げていきました。ボクはそんな凛とした態度に一目惚れしてしまったんです。ああ、ボクにもあんな風に叱ってほしい……そ、それはさておき、なんとかしてくださいよ!」
「なんとかって言われましても、その女性の連絡先はわかるんですか?」
「じ、自分で自分を褒めてあげたい。頭が、ぱパニックになっていたにも関わらず反射的に身体が反応したんです。ヨッパライがいなくなった直後に、すかさず……」
「訊ねたんですね!」

「聞こうとしたところに女子高生が割り込んできて、非難するように睨んできたんです。その目つきの、お、恐ろしいこと恐ろしいこと。ボクもう縮こまっちゃって思わず逃げてしまったんです」
「それでは連絡のとりようがありませんね」
「彼女のしょ、職場ならわかります」

唖然とした。「どうして知っているのです。もしかして尾行したのですか?」
「ひ、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。後から、ヨ、ヨッパライがつけてきて事件に巻き込まれないように影ながら見守っていたんです」
「いやいや。助けてもらったのは山田さんじゃないですか」
「とにかく職場だけしかわからないんです。なんとかしてくださいよ。ボクのラブマネじゃないですか!」

洋一は固唾をのんだ。「わかりました」そう答えたものの一体どうしたものか。腕組し、頭を捻っていると背後から男の声がした。
「なんとかしてやれよ。ヌマッチ」
振り向くと、コンクリートで固めたようなガチガチの胸板があった。その胸板の端から「わたしたちも手伝うからさ」と夏樹の頭がひょこりと生える。
「大空さん、坂本さん! どうしてここに」

二人は困った表情で互いの顔を見合わせた。「どうしてって……心配だったんだよ。なあナツ」「そう心配でいても立ってもいられなかったの。ねえコウちゃん」
「嘘おっしゃい。興味本位でついてきただけでしょうに」
「だってえ、恋バナって面白そうじゃん。それを独り占めするなんてずるい」彼女は不正を咎めるような物言をした。
「僕の場合それが仕事なんです」
「か、影沼さん誰なんですか?」
直也が上目遣いで訊ねると、二人はこちらのテーブルへと移ってきた。浩介が脚をおっぴろげるので洋一は身を狭める。

「ヌマッチの助っ人みたいなもんだ。つまりあんたの助っ人でもある」
「そ、そうですか。助かります」浩介の言葉に直也は素直に頷いた。
「山田さん納得しないでください。そういうわけにはいきませんから」
「本人が助かるって言ってんだからいいじゃないの」夏樹は頬杖を突く。
「先ほども説明したように僕には山田さんの個人情報を守る義務があるんです」
「ぼ、ボクの情報なんて構いません。それより彼女とお付き合いできることの方が、せ、先決です」
「無関係な彼らに協力してもらうわけにはいきません」
「オレたち、こいつのためになにかしてやりてえんだ」

断固として拒否する洋一に「む、無関係じゃなきゃいいんですか?」と直也はリュックサックをごそごそと漁りだした。四次元ポケットから引っぱり出すかのように現れたのは幼児ほどの背丈をした仏像だった。
「シッダ・ルッソ。かの有名な映画『紅のブッダ』の主人公。ご存じの通り、イタリア空軍のエースパイロットでありながら戦争に対し疑問を懐き、長旅の果てに悟りを開く壮大かつスペクタクルロマン。彼こそ男の中の男。我が命の光、我が炎、我が魂。シッダ・ルッソの三分の一スケールフィギュア」

「なぜこんなものを持ち歩いているのですか」洋一の眼鏡がずれ落ちる。
「これを、こ、コウチャンさんに差し上げます。親友の証に」
「おお、心の友よ!」
フィギュアを挟み二人は抱擁を交わす。直也はプロレス技をかけられているみたいに苦しげに脚をばたつかせ、浩介はなぜかしら不思議そうに首を傾げていた。洋一は天井を仰ぎ、瞼を閉じ、そっと息を吐いた。「わかりました」

ヤッタと夏樹が飛び跳ねた。
「ただし、やるからに規定に則ってやりましょう」
夏樹と浩介は「きてい?」と口を揃えた。
洋一の眼鏡がギラリと輝いた。「ラブカンファレンスですよ」

「ラブ……カンファレンス?」抱擁から解放された直也は咳き込みつつ、声にした。
「恋愛支援専門員のみでは解決が困難なケースが存在します。その際、利用者を取り巻くコミュニティより様々な人員を集め議論する手法。本来なら家族や長年の親友が該当するのですがね」
「心の友に時間なんて関係ねえぜ」と言う浩介に「そ、そうですよ。そ、そ、そんなの関係ねえ、ですよ」と直也も同調する。

洋一は腕時計の秒針を追った。「では十二時二十三分をもちまして、喫茶店『ドッグ』にてラブカンファレンスを開催します。参加者は被保険者である山田直也さん、ご友人の坂本浩介さん、大空夏樹さん、私、影沼洋一の計四名。議題は山田さんが恋心を抱く女性、仮にA子さんと……」
「あ、名前は、な、中谷舞さんです」直也は躊躇いがちに口を挟む。
「どうしてご存じなんですか」洋一は訊ねた。

「も、もしかして職場の中にまでヨッパライが押しかけてくるかもしれない、ボク心配だったんです。だから、しばらくショーウィンドウから、み、見守ってたら……名札が見えたんです」
「他に自宅とか家族構成とか把握してないわよね、まさか」夏樹は白い目を向けていた。
「な、な、なんですか。その疑いのまなざしは。し、知るわけないじゃないですか。ボクが知ってるのは職場と名前だけ、他にはなにもわからないんです」
「さっきもそう言ってたわ」

「コウチャンさんは信じてくれますよね、ね? ボクたち、心の友ですもんね」
「あたりまえじゃねえか。ストーカー行為でしょっ引かれても、心の友であることは変わらねえよ。そのかわり、ちゃんと罪は償えよな」
「な、なんで断定されてるんすか。お、おかしいじゃないすか」

洋一は両手を広げた。「はい、そこまでにしましょう。話が逸れていますので仕切り直しです。議題は山田さんが恋心を抱く中谷舞さんと親しくなるための今後の方策とします。皆で意見を出し合い……」
ハイハイハーイ、と夏樹が勢いよく挙手する。
「大空さんどうぞ」洋一はボールペンを手にし、ノートを開いた。
「ラブカンパネンスなんて、ややこしい名前じゃなくて、もっと違うネーミングつけましょうよ」
「あしからず議題名は関係ありません」

「おいおい、ナツの意見を冷たくあしらうなよ」浩介が睨みを利かせた。
「限られた時間は有用に使うべきです」
「えー、わたしせっかくいいネーミング思いついたのに」
「な、なんですか」興味深そうにする直也に「聞きたい?」と夏樹はにんまりとした。
「聞きたいです」「ナツ教えてくれよ」と彼らはモジモジと身体をうずかせる。
「でもヌマッチが関係ない話はするなって怒るし、どうしようかなあ」
頬に鼻息がふれるほど、浩介は顔面を寄せつけガンを飛ばす。
「ね、ネーミングは大事かと思われます。こ、今後の士気に関わります」直也は敬礼ポーズをとった。

洋一はこめかみを押さえ、小さく溜息を吐いた。「わかりました。どうぞおっしゃってください」
彼女はピストルみたいに両手の人差指を突き出し、「名づけて舞ちゃんハートゲッツ大作戦! ダンダン」と効果音まじえ、弾いた。
一瞬、時が止まったかの如く静まり、直也が口を開いた。
「イ、イイじゃないですか! なんだかミッション・イン・ポッシブル的な主人公になった気分です。む胸がざわめきました」
「では議題名も決まったことですし話を戻します。本題はどうすれば山田さんが中谷さんと親しくなれるのか、です」

「ナオヤン」と浩介が呼びかけた。
「な、なおやん?」直也は自身を指さした。
「そうだ、ナオヤンはなんか特技ねえのか? 歌が上手いとかスポーツやってたとかよ」
「コウちゃん、ナイスアイデア! 特技で舞ちゃんにアピールするのよ」

「と、特技……プラモデル改造ですかね」
「うーん、なんだかインパクトに欠けるわね」
「他には優しいことくらいしか……」
「それは自分から主張することじゃないわね」
洋一は黙々と各々の発言をノートに書き留める。

「で、電車でおばあちゃんに席譲ったり、道案内をしたり。この前もここまで案内しました。いつか素敵な女性の目に留まり声かけてくれる日を夢見て、ひ、日々努力してるんです」
「下心ありありの優しさね」
そんなあ、と直也の情けない声を最後に沈黙が澱んだ。

止まっていたペンを置き、洋一は腕時計に目をやる。「二十分が経過しました」
テーブルを叩きつけ、夏樹が立ち上がった。「このままじゃ埒があかないわ。行きましょう」
「い、行くって……ど、ど、どこにですか?」直也は声を震わせた。
「どこって舞ちゃんの会社じゃない。案内してよ、ナオヤン」

直也はたじろぎつつも了承し、職場まで訪れることとなった。オレンジロードから二十分ほど歩いたオフィス街の一画で彼は足を止めた。一面ガラス張りとなっており、シックな文字で『エムメス』とある。洋一でも聞き憶えのあるブランドの靴屋だ。心なしか、すれ違う人々もスーツを着こなすビジネスマンばかりで、モデルさながら洗練された歩き方をしていた。

人目をはばかることもなく「どこどこ?」と夏樹と浩介はガラスにへばりつく。
「お客さんと喋っている人です」二人の背中に隠れて直也は言った。
ショーウィンドウに並ぶ靴の奥で女性店員が接客していた。すらりとした長身に艶やかな黒髪が腰くらいまで伸びている。年齢は三十前半だろうか、口元にあるホクロが大人びた雰囲気を醸し出していた。

「美人な方ですね」洋一は息をのんだ。
「本当だな」浩介も息をのんだ。「痛てて」
夏樹が彼の頬をつねっていた。
「き、きれいなのもさることながら、あの若さで、て店長なんです」直也はふふんと鼻を鳴らす。
またもや、直也に冷たい視線がぶつかる。

「なな、名札に書いてあるじゃないですか」
「この位置じゃ見えないわよ」
「でも、しっかりしてそうで意外とオ、オッチョコチョイなんです」まるで自分のフィアンセを紹介するようだ。「この前なんて道端に落ちていた空き缶に躓いて転んだんです。ボクはそれから毎日、彼女の通勤ルートのゴミ拾いをしてます」そう言って、リュックからゴミトングを引っこ抜いた。
「中谷さんがその優しさに気づいてくれる日が来るといいですね」洋一は言った。

「ねえ、わたし閃いちゃった」夏樹がウインクする。「偶然をよそおってバッタリ出くわすってのはどう。あの時の! みたいな。そこで今度お礼をさせてくださいって言うのよ」
「ナツ、そりゃ名案じゃねえか」
「なるほど」洋一は顎に手を添え頷いた。「それなら自然に連絡先が聞き出せそうですね」
直也の情報によると、舞の終業時刻は六時とのことだった。一旦解散となり、その時間に再び駅の改札口にて落ち合うことにする。

夏樹と浩介は黒ずくめのシルクハットにロングコート、しかもペアルックだった。
恥ずかしくはないのだろうかと思う洋一を余所に「いよいよね。わくわくするわ」と夏樹はサングラスをずらし、不敵に微笑んだ。
「ナツさん楽しんでませんか」直也は緊張のあまり真っ青になっている。

そうこうしているうちに舞が現れた。カードをあて、優雅に改札口を通り抜けていく。一同は頷くと、そそくさ彼女の後をつける。トーテムポールみたいに顔を縦に並べ自動販売機から覗き見ていると、彼女は電車に乗り込んだ。別車両へなだれ込み、貫通扉の窓から様子をうかがう。彼女はきょろきょろと周りを見まわし、残念そうに頭を傾げながら席につく。

「誰か探しているのでしょうか」洋一がそう言うと、「ナオヤンだったりしてな」と浩介は直也の肩を叩いた。
「ま、ま、まままさか。そそそんな、舞さんが、そんなわけ……いや、ええ! もしかして」
「とにかく今がチャンスよ。ゴーゴーナオヤン!」夏樹は背中を押す。
一歩前進し、ああダメだと直也は蹲(うずくま)った。
「ナオヤン! 根性みせろ」「山田さんがんばってください」
直也は意を決したのか奮い立った。敬礼すると、声援に後押しされ足を踏み出した。

その時、舞の隣に男がどかりと腰をおろした。知り合いなのか彼女の表情がパッと明るくなる。男は彼女より、ひとまわりは年上に見えた。何やら話しかけられ、彼女は上品に笑った。しだいにスキンシップが加わり、聞き取れずとも会話が盛り上がっているのは一目瞭然だ。
「なにアイツ。随分、舞ちゃんと親しげね」
「つーか、ありゃデキてるんじゃねえ?」浩介はゲーム終了とばかりにサングラスを胸ポケットへしまった。

「なんで……」直也の開いた口が塞がらない。
「山田さんにとって宿命的な出来事は車内で起こるようですね」
「なんで、あの、ヨ、ヨッパライと舞さんが仲良くしてんですか」
直也の口振りからすると、男は女子高生に絡んでいたヨッパライ本人らしい。

「出会いが最悪なケースほど恋愛に発展しやすいといった統計もありますから」
四つん這いになって直也は落胆した。「は、初恋だったんです。今までに何度か運命の人だと思ったことはありました。けれど、それは間違いでした。こ、心がこんなにときめいたのは初めてだったんです」

洋一は膝をついて言った。「ディズレーリはこう言いました。初恋の魅力は初恋がいつかは終わるということを知らないこと、だと。きっとまた新たな恋が見つかります。いや、見つけましょう」
電車の揺れに合わせ、直也は身を震わせる。葉っぱから滴り落ちる朝露のように、ぽつぽつとリノリウムの床が濡れた。

事務所へと戻ると、当然出かけた時のままデスクに書類が山積みとなっていた。美加はすでに退社しており、一ノ瀬も帰り支度をしている最中だった。
「こんな時期に何度も呼び出されて最悪ね。実績まだなんでしょ」
「はい」
「利用者に振りまわされないのもスキルのうちだから親身になりすぎるのは禁物よ」
「はい」
「あんまり無理しちゃダメよ。じゃあね」
「はい」

彼女は半ば呆れ気味に出て行った。四谷所長はいつものようにとろりと眠たそうな目を洋一に向けていた。なんだよ見ないでくれよ、煩わしい。洋一は髪の毛をぐしゃぐしゃにする。違う、四谷所長は関係ない。要領が悪いのは自分のせいだろうに。

ひやりとした夜風になぶられ鼻と指先がツンとした。帰宅の道のりで、日に日に増す寒さを実感する。ハンドルを握る力が強くなる。虫のように自動販売機の灯りに導かれ、梅昆布茶を啜り飲んだ。安らかなひとときを満喫していると鞄がブウウンと唸る。携帯の画面を見ると父からの電話だった。

『おっ洋一。景気はどうだい? ケーキはどうだい? なんつって』
ヘラヘラと笑う父の顔が頭に浮かび、眉を顰めた。
「いやに陽気だね。酔っ払ってるの?」
『バッキャロウ。酔ってねえよ。まあ呑んでるけどな。へ、へ、へ。競馬で当たったんだよ、競馬。しかも三連単!』
「なにやってんだよ。賭け事はやめるって約束したじゃないか」
『バッキャロウ! 月に一度二万までいいって言ってたのは洋一だろ』
「それは父さんがあんまりしつこいから」洋一は梅昆布茶の匂いを嗅いだ。「まあいいよ」
『とにかく儲かったんだよ。ケーキと言わず高級ハンバーグでも食いに行くか』
「そんなのいいから借金の返済にあてなよ」

『酔いが醒めること言うなや。借金はちゃくちゃくと返してるよ』父の意気が途端に下がった。『なあ、仕事は順調か?』
「心配いらないよ」
『大変だと思うけどよ、何事も牛の上にも三年つってな……』
「石だろう? 父さんには言われたくないね」ふん、と鼻を鳴らす。
『ったく、可愛げがねえガキだな。母さんそっくりだ、そうそう、その……なんだ。母さんはどうだ、元気か?』

洋一は小さく吐息を洩らした。
待ち切れずに父は訊ねてきた。『なんだよ、なんか病気でもしたのか』
「なにもないさ。至って健康。父さんと別れてからの方が元気なくらいだよ。きっとストレスから解放されたからだね」
『ビックリさせんなや、もう切るかんな。洋一も身体にゃ気をつけろよ』
返事を待たずに電話はぷつりと切れた。

アパートに到着すると、愛子は寝そべりながらお笑い番組を観ていた。芸人の甲高い声がやけに癇に障る。
「あ、おかえんなさい」彼女はスナック菓子を頬張り、下品な芸人を見て下品に笑った。
「もう遅いんだから音量下げなよ。近所迷惑じゃないか」
鞄を椅子に置き、手洗いを済ませた。冷蔵庫を開け食材の確認をする。
「あたし夕飯食べてきたから用意してないよ。ポリンコならあるけど」つまんでいた菓子袋を掲げる。

「夕食がないのは毎度のことじゃないか」
「ラーメンとか焼きそばとかパスタとか用意してるじゃない」
「インスタントで偉そうにして」
「なによ、帰ってきた早々やんな感じ」彼女はテレビの電源を落とした。「風呂入ってくる」
「身体洗ってから浴槽に浸かってくれよ」
「なんなのよ。毎日そうしてるって」
「四日に一度、洗わずに浸かっているだろう。浴槽に浮かんだ垢を見ればわかる」
「やあね、チェックしてんの?」
「あと排水溝の髪の毛は取ってくれ」
はいはい、と適当な返事をする。
「歯磨も風呂場ではしないでくれよ」
愛子は歯を剥き出し、「別にいいじゃない。ケチ!」そう言い放つと勢いよく浴室のドアを閉めた。
「なんだよ、ケチって」

しばらくして、シャワーの流れる音と「カーネもち、カーメもち、もーち肌もち」とわけのわからない歌声が聞こえてきた。キノコとニラと卵をキッチン台に並べているとラジオ体操のメロディーが鳴る。テーブルに愛子の携帯電話が無造作に置かれ、メールが届いたようで明るくなっている。何の気なしに見ると、貴彦と表示されていた。

心臓を鷲づかみされたかのように息苦しくなる。
忘れもしない。先週バッティングセンターでかけてきた男の名じゃないか。
洋一は手を伸ばしていた。ぴたりと止める。首を振った。

いやいや、ダメだ。それは絶対にダメだ。
携帯電話のランプが警告信号のように赤く点滅した。確かめろ、そう訴えかけてくる。
部活の先輩だと言っていたじゃないか。信じてないのか?
愛子の歌がサビにさしかかった。もうすぐ浴室から出てくる。

信じているさ。
手を引っ込めた。
いいや! 信じているからこそ確認するんだよ。
すばやく携帯のメールを開いた。

『ごちそうさま。今日のハンバーグうまかったぜ。また楽しみにしてるよ』
火花が散ったように視界が白くなり、ゆっくりと色彩を取り戻していく。携帯を元の位置にそっと置いた。もの哀しさに吹き飛ばされそうになり、テーブルにしがみつく。眼球が熱い。三年前の思い出が追い打ちをかけてくる。

 

三年前 十月二十三日 水曜日

「日本恋愛大学人間恋愛学部人間恋愛学科二年、影沼洋一と申します」起立して、そう名のった。
人数が足りないからと誘われ、居酒屋での食事会いわゆる合コンなるものに参加していた。男女三人ずつ、横にバイト仲間の男、向かい側にバイト仲間が呼んだ女性とその友人がいた。洋一にとって女性全員初対面だった。

女性が顔を見合わせた。未成年にも関わらず平然とビールジョッキを頼もうとしていた二人だ。洋一の説得で何とか思い留まったものの不服そうにしていた。席につくと、正面のボサボサ頭の女性だけが空中ブランコが成功したとばかりに拍手喝采した。
彼女は野山愛子と言った。

「なになに? 恋愛学科ってなに勉強すんの」
自己紹介が一巡し、料理がテーブルを埋め尽くし、適度に他愛ない身の上話が繰り広げられたところで愛子は手羽先をしゃぶりながら訊ねてきた。
「一言で申しますと恋愛における社会制度、社会的活動を研究、実践するのですが世界各国での恋愛にまつわる歴史、文献、統計データの推移を紐解き、少子化、離婚、虐待、年々増加する社会問題を打開するため、さらには人間のライフスタイル形成における恋愛のあり方を広義的に捉え、マズローの欲求段階説で理論化した社会欲求と愛の欲求の枠組から自己実現、つまるところのアイデンティティの表出に至るまで……」

ハッ!
気づくと女性に加わり、バイト仲間までもが不審者を目撃したかのような目つきだった。その中で、またも愛子だけが手羽先の破片を飛ばし爆笑していた。
「意味わかんないけどオモローね! で、なにを目指してるわけ?」
「恋愛支援専門員です。通称ラブマネージャーとも申しますが」
そこでようやく数人が頷いた。

腹が満たされていくにつれ、残った料理がバケツリレーみたいに愛子へとまわされていた。彼女の食欲の炎は一向に消える気配なく次々と平らげる。さらえるたびに誰かが反応していたが、しだいになくなり、隣が透明な壁で遮られたように一対一で語り合う空気が漂っていた。

「影沼くんって下宿してんだ」
愛子は軟骨の唐揚を石焼ビビンバのスプーンでこんもりとすくった。
「はい。実家から通える距離ですが、格安のアパートを発見しまして経費がかからないのです」
「ふうん、どの辺に住んでんの」
口頭で説明するが彼女は全く見当がつかないようだった。メモ用紙に書くと「地図帳コピーしたみたい」と言った。

「彼女いないでしょ」
「なにを唐突に、なにを根拠に、失敬極まりない!」洋一は眼鏡をくいっと上げた。
「あ、いるんだ」
「いや、いませんけどね」
「ただいまする相手いないと寂しいんじゃない?」

カルピスなのに、どうしてかしらホロ酔い気味で舌足らずだった。
「児童期から親は夜遅くまで働いていたのでなんとも感じません」
「ふうん。鍵っ子ってやつだ。兄弟もいないの?」
はい、と顎を引き、「野山さんは?」と訊ねた。
「あたしも一人っ子かな」彼女の片眉がぴくりと跳ねる。

シメにお茶漬けが運ばれ、洋一はずるずると啜った。
「影沼くんってお茶漬け似合うよね」愛子はケラケラと笑っていた。「洋食とか食べなさそう」
「そうですか。僕ハンバーグが好物なんですけどね」
「ハンバーグ!」サラダを取り寄せたトングをかしゃんと鳴らした。「子どもみたい。干し柿とか好きそうなのに」
「干し柿も好きですよ。いやいや、なんですかその印象。歳よりくさいってことですか」
「まーね。よく言われるでしょ?」
二人は声を重ねて笑った。

 

十一月三日 木曜日 その二

美鷹駅の南出口に時計台をドーナツ型に囲う噴水がある。ちょっとした広場となっており、デートの待ち合わせ場所としてよく利用されていた。百永美もその一人だ。
どのくらいの雑踏が過っていっただろうか。ふう、と息を吐いてみる。白くはならないがスカートの下がすうすうと肌寒い。鼻から息を吸い込むと、澄んだ冬の匂いがした。

時計台を見上げた。約束の時刻はとうに過ぎているが烈久の姿はない。一時間前に到着メールを送ったものの返信すらなかった。彼が時間にルーズなのは百も承知だ、気にしないことにしよう。それにしても、足の爪先がひりひりと痛む。慣れないヒールのせいだ。履くのを止めておけば良かったと後悔していた。百永美は首を振る。これもデートの楽しみのひとつ。

おねえさんと突然に声をかけられ、振り向くと二人の男が立っていた。
「さっきから一人だけど誰か待ってるの?」
「暇ならボクらと遊ばない?」
スケートボードを抱えた派手なパーカーの男とドングリみたいに眉が隠れるまでニット帽をかぶった男だった。彼らに見憶えはない。無言で身体を背けると、パーカー男はまわり込み「カレシ待ってるの? もう三十分以上経つよね」と行く手を阻んだ。
「おねえさんみたいな美人待たせるカレなんて放っときなよ」ドングリ男は下卑た笑いを浮かべた。

呼吸が荒くなる。空気がうまく吸い込めない。にたりと口を歪め、細くなった瞼の奥では欲望が渦巻き、その渦中に百永美を映していた。百永美は耐え切れずに目を塞ぐ。
「ほら風邪ひいちゃうよ」「ねえねえ、行こうよ」
真っ黒に塗り潰された手の影が伸び、腕にぐるぐると絡みつく。やめて、その一言が出ない。石化したように口が硬直している。腕を強く引かれた。助けて、百永美は鞄につけた御守を必死で握りしめた。

腕がふっと軽くなった。絡みついた手の影が消えていた。瞼を開くと、パーカー男が呻きながら腹を抱え倒れていた。嗅ぎ慣れた煙草の匂いが漂う。百永美はハッとした。
「おい、なに人の女にチョッカイだしてんだ」烈久はドングリ男の胸元をしめ上げた。
男は浮き立った脚をばたつかせ、一気に蒼褪める。謝罪めいたことを喚き、烈久が手を離すと尻餅をついた。

うせろ、と蹴りつけられたドングリ男は、パーカー男を抱き起し駆け出した。烈久は咥えていた煙草を地面に捨て、靴底ですり潰すと、何も言わずに歩き出した。カラオケ店に向かうのだろうか。百永美は煙草を拾ってティッシュでくるむと、小走りでついて行った。
「あの、ありがとう」
百永美が言うと、彼は「ああ」とだけ答えた。しばらくの間、喋ることもなく歩き続ける。

「今日なにかあったの?」百永美は深い意味なく訊ねた。
肩をいからせ「なんで」と言った。
「ちょっと遅かったからなにかあったのかなって」
「別になにもねえよ」
機嫌を損ねたのか歩く速度が一段と増した。ヒールを鳴らしながら彼の背中を追う。爪先が激しく痛んだ。

「ごめん、もう少しゆっくり歩いて」
「ちゃんとついて来いよ。外で会いたいって言ったのお前だろ」
「ごめん……なさい。足が痛いの」
彼は無表情のままヒールへと視線を注ぐ。さっきの煙草みたいに靴底で踏みつけられているようだ。

「じゃあ中止な。俺先に帰ってるから」
「え? カラオケは」
「歩けないんだろ。適当に休んでから帰って来いよ」
百永美は呆然とした。彼の背中が一歩、二歩と遠退いていく。「待って」彼の足がぴたりと止まった。百永美は歩み寄りながら口元を緩めた。

「今みたいにナンパについて行くなよ」
烈久の言葉が理解できなかった。何を言っているの?
「お前も変な目で誘ってたんじゃねえのか」
「私そんなことしない!」百永美は袖をつかみ、叫んだ。

一瞬、視界が真っ白になった。左頬が焼けるように熱い。鼻の下が妙に生暖かい。手をあてると刷毛ではいたように赤くなった。血だ。烈久は拳を握りしめている。殴られたのだ、と思った。彼は袖を払い、遠ざかっていく。とっさに足を踏み出すが、躓き、膝をつく。顔を上げると、彼は人混みに紛れていた。

ヒールを片手にとぼとぼと歩く。爪先とすりむいた膝の痛みに打ちひしがれ、立ち止まると御守を見つめた。雨が降っているわけでもないのに湿っていた。
「烈久じゃないの? わかんないよ、私」
あの日からずっと持ち歩いていた。いつか彼に……彼のような人に出会えることを信じて。

 

十一年前 一月一日 土曜日

元旦、蜻蛉神社の境内は人だかりと屋台で溢れていた。お父さんに手を引かれ、すれ違うたびにいくらかの人が足を緩める。振袖を着ている小学生が珍しいのか人目を引く。着飾っての初詣は恒例となっていたため、百永美自身は慣れっこだ。

参拝を終え、屋台を一通り巡ると「少しここで待っていなさい」とお父さんは公衆トイレへ入っていった。外から男性便器とガニ股になりチャックを下ろす知らないおじさんが見える。トイレはいかにも不潔で、あそこで用を足すことができるお父さんが何だかいつものお父さんでない気がした。家まで我慢すればいいのに、そう思った。傍にいるだけで手にしているクレープが汚れていく感じがした。

離れようと振り返った瞬間、ふざけながら歩いていた中学生くらいの男とぶつかった。謝ろうと顔を上げ、頭が白くなった。男の赤いセーターにクリームがべっとりとついている。クレープがあたったのだ。

「どうするんだよ」
男は怒りを露わにし、友人らしき青ジャンパーと豹柄のトレーナーを着た二人の男が笑いながら近づいてきた。百永美は囲い込まれ、じりじりと屋台裏へと連れ込まれた。本通りから目と鼻の先であるのに、屋台と木々が遮っているせいでひどく薄暗い。因縁をつけてきた赤セーターの男が無言で手を差し出してきた。金を要求していることはわかった。しかし、持ち合わせていない。首を振ると、男は拍車をかけて怒り詰め寄ってきた。青ジャンパーの男が彼の肩を叩いた。もう止めよう、その合図だと百永美は胸を撫でおろした。

違った。青ジャンパーは百永美の顔をじっと凝視し、次に嘗めまわすように全身を見やった。耳打ちをし、三人はにたりと笑った。初めて男を怖いと思った。腕をつかまれた。とっさに男の足を踵で踏みつける。頬を殴られた。百永美は動くことができず、これから自分はどうなってしまうのだろうという不安感で押し潰されそうだった。三人組のいやらしい目、零れる歯、百永美は瞼を閉じた。

すると呻き声がした。目を開けると青ジャンパーが蹲っている。少年が立っていた。彼がやったのか、まさか。しかし赤セーターと豹柄トレーナーが少年を睨みつけている。赤セーターは拳を放つ。それをかいくぐり少年は見事なアッパーをかました。さらに馬のりになり、太鼓でも打つように拳骨でぼこぼこと殴りつける。気が済んだのか、豹柄トレーナーへと標的を切り替え、立ち上がった。豹柄トレーナーは一目散に逃げ出した。赤セーターと青ジャンパーもそれに続いた。少年は三人組を追い駆けていく。

あっという間の出来事だった。
薄暗い地面に何か落ちていた。拾い上げるとそれは御守だった。きっとあの少年が落としたのだ。そう思えてならなかった。

『おかえんなさい、ラブマネさん』その7へ続く

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その7
オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その7オリジナルのラブコメ小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その7。山田直也の恋を実らせるため、ひょんなことから加わった大空夏樹と坂本浩介と共に「舞ちゃんハートゲッツ大作戦」を決行。しかし、親し気に会話する男性との姿を目の当たりにし、計画を断念することとなる。一方、交際相手である富樫烈久から暴力を受ける花岡百永美。十一年前に男に絡まれたところを助けられた過去、そして大切に持ち歩く御守との関係が明らかとなり・・・...