こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その8を紹介します。
おかえんなさい、ラブマネさん その8
恋愛保険の相談窓口となる恋愛支援専門員(ラブマネージャー)の青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。
登場人物の紹介
影沼洋一・・・美鷹恋愛支援センターに勤務する新人ラブマネージャーであり、本作の主人公。
野山愛子・・・影沼洋一と同棲中の交際相手。
花岡百永美・・・影沼洋一が担当する女子大生の利用者。
富樫烈久・・・花岡百永美の交際相手。
大空夏樹・・・影沼洋一が担当する金髪ギャルの利用者。
坂本浩介・・・大空夏樹の交際相手。
濱崎極・・・影沼洋一が担当する定年退職した男性利用者。
濱崎弘子・・・濱崎極の妻。
山田直也・・・影沼洋一が担当するオタク青年の利用者。
中谷舞・・・靴屋『エムメス』の女性店長。
四谷高夫・・・美鷹恋愛支援センターの所長。
一ノ瀬友子・・・影沼洋一の世話を焼く中年上司。
六本木美加・・・影沼洋一の先輩ラブマネージャー。
新田貴彦・・・元諏実高校野球部の男性。
新田伸枝・・・新田貴彦の妻。
前回までのあらすじ
電話が繋がらないため、花岡百永美のアパートを直接訪問する影沼洋一。
彼女の頬にあったのは、青黒い痣だった。
今後の対応に頭を悩ませる最中、濱崎極から妻の弘子のことで相談を受けることになる。
そして、ラブマネージャーを通じて彼女が離婚を決心していることを知り・・・
十一月二十六日 土曜日
ファックス機の起動音がするや、一ノ瀬は不貞腐れた表情で流れ出る様を見届けていた。送られてきた用紙は彼女の担当する利用者実績であったので洋一は手渡した。
「またやってきた。げんなりしちゃう」見ることもせずに引出にしまい、邪悪な怪物でも封印するかの如くぴしゃりと閉じた。そして何事もなかったかのように話しかけてきた。
「ところで知ってる? ミカちゃん最近別れたらしいわよ。そもそも付き合ってすらなかったから別れたってのもおかしいけど。要は失恋したわけよ」
「そうなんですか」
洋一は横目で美加を見る。言われてみれば黒髪、白シャツの飾り気のない以前の外見へ戻っていた。
「これなんか見てよ」一ノ瀬は『ワイズメン』を操作し、美加が作成した恋愛計画書を開いた。「恋してる時はあんなにポジティブだったのに……ほら。『デートによる身体的及び経済的負担を考慮し、独りの時間を増やす』だって」
美加の怨霊のように冷徹な視線が一ノ瀬を貫いた。彼女なりに声を潜めてはいたものの、デスクが真向いであり、何より地声が大きいため筒抜けだったようだ。
「そうそうヨウくん。花岡さんってもう認定おりてたわよね」背中を丸め、話題を変えた。
「そのはずですが」一ノ瀬が不可思議そうに首を傾げたので「どうかしましたか」と訊ねてみた。
「実績が上がってないでしょ。せっかく認定がおりたばかりなのに女子大生がどこにも遊びに出かけないのって不自然じゃないかしら」
「気づきませんでした。しかし先日お邪魔した際、大学のレポートが忙しいからっておっしゃっていましたからね」
「いくら忙しくても花の女子大生よ? 月に一度や二度はデートするでしょうに。私が若かりし頃に恋愛保険があったら限度額ギリギリまで使うけどね」
「花岡さんは一ノ瀬さんとは違うんですよ」
そう言ったものの、燻(くす)ぶり続けていた不安感が胸に広がる。百永美に電話してみるが、やはり繋がらなかった。
「もしかして認定まだおりてないのかもよ。まだ意見書とってきてないんでしょ?」
洋一は頷く。彼女に促され市役所へ問い合わせてみると、審査会の日付はとうに過ぎていることが判明した。認定はおりている。では、なぜ百永美の実績が上がらないのか。調査票と意見書の内容が気がかりだった。電話では審査日以上のことは教えてくれない。
洋一は市役所へと自転車を走らせ、窓口で調査票と意見書を請求した。そこには審査会の資料となる調査員と臨床心理士による見解が記されている。結果は支援一だった。特記項目も空欄となっている。支援依存の低い、ありふれたものだった。専門家が判断したのだ、間違いない。左頬の痣は転んで出来たものだ、と安堵の息を洩らす。
しかし本当にそうだろうか? もし彼らが重大な事態を見過ごしていたらどうなる。
窓口に設置されたラック、その中にあるパンフレットのひとつが目に留まった。手に取り、彼女のアパートへ出向くことにした。
インターホンを鳴らすが音沙汰はない。この前みたいに気長に待つ気分にはなれなかった。それに百永美は部屋の中にいる、なぜだろうか確信していた。迷惑をかえりみず、玄関扉を殴りつけるようにノックし、彼女の名を呼んだ。
扉は開いた。チェーンが繋がり、目玉がかろうじて見える程度の僅かな隙間だった。百永美の目玉を奪った影が迎え出たかのように、姿は暗がりに溶け込んでいる。昼過ぎにも関わらず部屋のカーテンを閉め切っているようだ。視線を部屋へやると、彼女は家宅捜査を警戒する容疑者みたいに顔を引き攣らせノブを引く。
「急に失礼しました」洋一は閉じられないよう、とっさに手を挟み込んだ。
「なんの……ご用ですか」
長いこと発声していないような枯れ枯れとした声だった。
「認定証は届きましたか?」
「認定証……わかりません。最近ポスト見てませんから」
「本日、市役所にうかがいましたら認定がおりてましたので、そろそろ証明書が届く頃かと思いまして」
「そうですか。今度見ておきます」百永美は他人事のような口振りで言った。
「大学のレポートがお忙しいとは思いますが、せっかく認定がおりたのですから、どこかに出かけられてはいかがですか。まだどこにも行かれてないようですし」
彼女の目が真円を描いた。「どうしてそんなことわかるんですか」
「事業所から実績が上がってなかったものですから。ほら、今月カラオケに行くっておっしゃってましたよね。ここへ来る途中で『ナイト・オブ・サマーサイド』へ問い合わせてみたのですが、花岡さんがご利用されたのはもう二ヵ月以上も前のことだと言われました」
「なんでもお見通しなんですね」彼女は深く溜息を吐いた。
「なにかあったんですか?」
「もういいんです、気にしないでください。それに……保険も解約しますから。影沼さんには勝手言って申し訳ないですけど、もう家に来るのこれっきりにしてもらえませんか」
絶句する洋一に容赦なく扉を閉めかける。「手を離してください。折れちゃいますよ」
それでも指先に力を込め、食い下がった。引き離さそうとして百永美の手が明るみに出る。洋一は凍りついた。淡雪のように美しい彼女の手ではなかった。まるで足跡で黒く滲んだ残雪のようにケロイド状に膨れ上がった痕がぼつぼつとあった。
洋一が怯んだ瞬間、扉は閉ざされ、西洋の城門みたいに重圧感のある鍵音がした。
「開けてください」洋一は拳を打ちつける。
「いいかげんにして、もう来ないでください」
「どうしたのですか。その怪我!」
「なんでもありません。近所に迷惑ですからやめてください。警察呼びますよ」
「呼びたければ呼べばいいじゃないですか。なんでもないわけがないでしょう。火傷の痕ですよね? そんな怪我、煙草でも押しつけられないとできませんよ」
しんと静まった。
扉を隔てた向こう側で押し黙っているのか。もしかすると本当に警察に連絡しているかもしれない。聞いていることを信じて洋一は訊ねた。「彼からですか?」
「帰ってください。彼に見つかると……また殴られるから」
掠れ声とは裏腹に鋭利な刃となって洋一の心を切り裂く。
洋一は瞼を塞いだ。違うだろう、彼女の方が比較にならないほどつらいのだ。しっかりと前を見据え、声を張った。「彼とは縁を切るべきです。ますますエスカレートしていきますよ」
「あなたになんでそんなこと指図されなきゃいけないの!」百永美だと判別しがたいほどに怒りと憎しみの入りまじった叫び声が響いた。「私が好きなんだからいいでしょ。この怪我だって彼の愛情表現なの」
「暴力をふるうことが愛情表現なんて間違っています」
「他人のあなたに一体なにがわかるっていうの」
「ええ、わかりませんよ。わかりっこない。わかりたくないです」
「もう放っておいて」
「そんなこと僕にはできません」
「なんで? なんで……そんなに熱心になれるの。たかが赤の他人じゃない」
「それは……僕があなたの恋愛支援専門員だからです」
啜り泣くような嗚咽がした。肩を震わせて泣き伏せる彼女を想像していると、高らかな笑い声がすぐさまそれを打ち砕いた。
「笑わせないで。ラブマネだからなんなの。そんな風に言えば私が心でも開くと思ったわけ? 思い上がらないで。あなたはただ保険の手続きをしてればいいじゃない。これは私たちの問題なの」マシンガンでも乱発するように彼女は言い放った。「これ以上、世話焼かないで」
「世話を焼くことでうまくいった事例もあります。そして、その世話焼きこそが我々の仕事なのです」
「烈久はね、私を護ってくれたの。私にとってずっと憧れの人だったの」
「でも、あなたは傷ついている」
「こんな怪我なんて大したことないわ」
「いいえ違います。心に深い傷を負っている」
すう、と息を吐くのが聞こえた。気のせいかもしれない。
「烈久だってね、きっと苦しんでいる」穏やかな声だった。「彼には私が必要なの。傍にいてあげたいの。だからお願い、もう帰って」
懇願するような言い方に全身の力が抜けるのを感じた。
「今日はドメスティック・バイオレンス防止の案内をお持ちしました。ポストに入れておきますので一度読んでみてください」
階段を降り、ポストへと投函しておいた。鎖で繋がれた鉄球を引きずっているかと思うくらい足がやたらと重かった。
所内に一ノ瀬はいなかった。美加に訊ねると、急用ができたためすでに退社したことがわかる。彼女にこの件について相談しようと思っていたので落胆した。四谷所長はこそこそと屈んで、手鏡で薄くなった毛髪を気にしていた。彼に相談する気にはとてもなれなかった。
ひどい疲労感を抱えながらアパートに辿りついた。部屋は真っ暗だった。今日も愛子は貴彦という男と会っているのだろうか。リビングに放ったままになっていた汚れた彼女の作業服を洗濯籠に押し込むと、灰色となり力尽きたボクサーのように腰を掛けた。九時を越し、時計の針は着々と時を刻んでいく。十時になっても彼女は戻ってこない。いくら人差指でテーブルを小突こうが、いくら膝を揺らそうが同じだった。
十時二十三分、ようやく「ただいま」と愛子は帰宅した。膝がぴくりと動いたものの、立つことはしなかった。じっと彼女を待った。
「いるじゃない。また、あたし電気消し忘れたかと思っちゃった」彼女はジャージを床へと脱ぎ捨てる。
あっけらかんとした声が苛立ちに拍車をかけた。
「どこいってたんだ」
「別にどこだっていいじゃない」
思春期の娘が父親に訊ねられたかのように、あしらうような言い方だ。今まで煙と何ら変わらなかった貴彦のイメージは急速に集束したかと思うと、膨張し、粘土をこねるようにして人型を模っていく。そして、鮮明な輪郭と色彩を帯びた姿を形成した。
スタイル抜群の八頭身、真っ赤なバラを刺した白のタキシードに身を包み、胸元からは魅惑的なコロンが香る。彼は澄んだ川の流れみたいにサラサラした髪と歯を輝かせ、愛子を口説く。愛子も愛子でまんざらでもなくポッと頬を染め、生まれてこの方放屁などしたことありませんといった、ほとばしるアイドル的スマイル。
なんて不埒なのだ、キ、ミ、は!
「どうして言えないんだ! ここのところ毎晩じゃないか」
「でた。ドシテドシテ虫」
嘲笑する彼女に「茶化さないでくれ」と眉間に皺を寄せて言った。
「なんなのよ、帰ってきて早々」
赤旗で煽られた闘牛のように好戦的な物言いとなる。それにつられ、洋一も鼻息を荒げた。
「疚しいことがあるから言えないんじゃないかい」
「もしかして疑ってるわけ」
疑っている? 疑っているさ。疑われる要因を作っているのは彼女だ。
黙りこくっている洋一に、愛子はカレンダーへと視線を移し「馬鹿みたい」と溜息を吐いた。「疑いたきゃ勝手にすれば」
寝室の戸を開ける彼女に「まだ話は終わってない」と洋一は呼び止めた。
「あたし疲れてんの。おやすみ」
「ハンバーグ作ることがそんなに疲れることなのか?」
一時停止ボタンを押された映像のように彼女はぴたりと制止した。口を滑らせてしまったことに気づいたのは振り向いた彼女の表情を見てからだった。
「なんで、洋一そのこと知ってんの」
顔面だけが未だに停止したままかの無表情だった。
何と答えたらよいかと考えれば考えるほど、しどろもどろとなる。
彼女はズボンのポケットの膨らみをなぞるようにして携帯電話を取り出した。「まさか覗いたの?」
愛子と視線を交えることができず目を逸らした。
「信じらんない。そんなことするなんて」彼女は小さく舌打ちを挟んだ。「メールが既読になってたから、おかしいとは思ってたの。あたしのことだから寝ぼけて開いちゃったんだとたとばかり思ってたけど……やっぱり読んでたんだ」
「知らないよ」
「じゃあ、どうしてハンバーグのこと知ってるわけ? 説明してみなさいよ」
「落ち着いて聞いてくれ。これには事情があったんだ」
「あたしは落ち着いてるわよ。慌ててんのは洋一の方でしょう。どんな事情があるっての」
「キミのことが心配だった」
「なによその言い訳。疑ってたんでしょ。はっきりそう言えばいいじゃない」
「ああ、そうだよ。見たよ見ましたよ。疑っていましたよ。でも、最近帰りが遅いからそう考えるのが妥当じゃないか。キミにだって非はある」
「今度は逆ギレ? なんでいっつも自分が正しいみたいな言い方するの」
「そんなことない。携帯を覗いたことは悪かったと思っているさ。申し訳ありませんでした。ほら謝っているだろう」
「開き直んないでよ」
「そもそも、どうしてハンバーグなんだ」
「なんで? あたしがハンバーグ作っちゃいけないわけ」
「普段ろくに料理なんてしないくせに」
「そんなの関係ないじゃない。作りたいから作ってんのよ」
「迷惑なんだよ」
「洋一に迷惑なんて一切かけてないでしょうが」
「彼にだよ。どうせフライパン焦がしたんだろ。どうせ失敗したんだろ。今頃、腹痛でもおこしているんじゃないのかい。は、は、は!」
「失敗したけど文句言わずに食べてくれたわよ。焦げたフライパンも文句言わずに洗ってしてくれた……洋一と違ってね!」
「じゃあ、その優しくしてくれる彼のところに行けばいいだろ!」
愛子は唇を開きかけたものの、それ以上反論しなかった。洋一は立ち尽くし、暴力的な無音状態が心身を圧迫する。彼女の乾いた瞳からは怒りも哀しみも読みとることができない。言い過ぎた、と思った。謝るべきだ、と思った。しかし、それは言葉にならなかった。思いだけが喉元で燻ぶっていた。
先に行動したのは愛子だった。「わかった」そう言うと旅行用のボストンバッグに洋服を片っ端から突っ込んでいく。引き止める洋一の言葉に耳を貸そうとせず、一心不乱に押し込むと、今にもはち切れんばかりのボストンバッグを肩に背負う。「もう終わりだね」そう残し、玄関扉の無情な響きとともに彼女の影は消え失せた。
猪の体内で愛子は膝を抱きながら身を縮めていた。アパートを飛び出したものの、往くあてもなく行き着いた先が猪頭公園だった。屋外より幾分ましなものの、猪の口から冷やりとした夜風がしきりなしに吹き込んでくる。ボストンバッグからコートやジャンパーを引っ張りだし、毛布代わりにする。
明日は休みだし、朝になってゆっくり考えればいい。中学生だってホームレスやれたのだから何とかなるだろう。そう、バイトと言えど社会人なのだ。家賃を払っているより案外と贅沢な暮らしができるかもしれない。腹ごしらえに朝食はステーキにしよう。お金はあるのだ。お金? 慌ててボストンバッグの中身を掻き分けるものの、財布は見あたらなかった。入れ忘れたのだ。普段は持ち歩かない主義が仇となった。ポケットには小銭で七十二円あった。これではステーキどころかコンビニのおにぎりも買えやしない。
一食抜こうが死にはしないと諦め、バッグを枕にして横になった。ふと、洋一の職場がこの付近にあり猪頭公園で弁当を食べていることを思い出した。このまま床につくと昼までぐっすり眠りこける可能性がある。近所の子どもに騒がれているのを彼に発見される恐れがある。それは気まずい。
愛子はコートとジャンパーをボストンバックに詰めると、再び歩き出した。しばらくすると鼻先に突き刺すような冷たい痛みを感じた。水滴が落ちてきた夜空を見上げると、どす黒い雲が澱んでいる。道に迷った時みたいに不安感が募り、それを楽しむかのように雨は強まり、途端に土砂降りとなった。
不安感をなぎ払うように駆け出した。抗うことを喜び、打ち負かそうとせんばかりに雨と風はさらに激しく愛子を打ちつける。視界が滲み、雫が目尻をつたった。それは雨だか涙かわからなかったが、その瞬間、負けたと思った。愛子はもう走れなかった。
気がつくと貴彦の家の前にいた。通い慣れていたせいで自然と足が向いたのだろうか。それとも彼に会いたかったのか。そんなことを考えていると暖かな光が出迎えてくれた。
「どうしたんだ、そんなずぶ濡れになって」
愛子が無言で立ち竦んでいると貴彦は顔を歪めた。心底心配しているかのような、いや違う。いつか見たことがある表情だった。そうだ。甲子園の準決勝で負けた時の顔そっくりだった。悔しそうで、大切にしていた何かが失われたかの……
涙が零れた。今度は間違いなく涙だ。
「別れたの」
嗚咽まじりに言葉にすると我慢の糸が吹っ切れた。堤防が決壊したかのように涙が溢れ出てきて、うわんうわんと泣き叫んだ。
「そうか」彼は愛子の濡れた髪を撫でた。「中に入れよ。シャワー浴びなきゃ風邪ひくぞ」
「でも……」
「いいんだ。伸枝のことは気にするなよ」
愛子は頷き、足を踏み入れた。
『おかえんなさい、ラブマネさん』その9へ続く