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オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その1

『おかえんなさい、ラブマネさん』その1

こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その1を紹介します。

恋愛支援専門員(通称ラブマネージャー)である青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。

 

おかえんなさい、ラブマネさん その1

 

十月十九日 水曜日

間もなく、だ。
布団の中で身を縮めながら影沼洋一かげぬまよういちは生唾をのんだ。
間もなくきゃつの咆哮が響き渡る。

掛け布団をそっと上げ、木々の隙間から鷹を狙う猟師の如く洋一は目を研ぎ澄ませた。が、視界はぼやけ、きゃつの輪郭はモヤに溶けていた。慌てて枕元をたぐり眼鏡を嵌めると、深緑の怪獣であるボジラの姿がくっきりする。腹に埋め込まれたアナログ時計の針が六時二十七分を通り越したところだ。その前で野山愛子のやまあいこが寝息を立てている、あたかもそこが地上の楽園かのように。

洋一は、ほくそ笑んだ。
あと三分……
期待に胸が躍る。ボジラの目覚まし時計は、昨夜彼女が寝静まってからセットしておいた。今までみたいに生半可な代物ではない。時計屋の店員曰く、キングゲドラも慄くほどの大音響だそうだ。生物兵器となり得るウイルスを偶然にも生み出してしまった化学者のように苦悶しながら店員は打ち明けた。心臓の弱い者なら失神しかねないだろう、と。これまで無残にも惨敗を喫した目覚まし時計の数々を思いはせ、涙腺が緩んでくる。

洋一はハッとした。感傷に浸っている場合ではない。
あと一分。
あと一分で夢の楽園は砕け散るのだよ。きゃつによって粉々にね。込み上げてくる笑いを堪え、パジャマの胸ポケットから耳栓を抓み出し、耳穴にぎゅうと押し詰める。準備は万端だ。
十二と秒針の間隔が刻々と狭まる。
三……二……一。

ダダダン ダダダン ダダ ダダ ダダ ダダン!

ボジラのテーマ曲が部屋中に轟く。予想以上の音量に、バーテンダーに頭をつかまれシェイクされるかのように視界が揺さ振られる。ボジラの咆哮が耳栓をものともせず劈く。敷布団から膝へと地鳴に似た振動がつたった。眉を顰めながら愛子の慌てふためく姿をしかと目に焼きつけねばと瞼を見開いた。

しかし、愛子は先ほどと同じ体勢だ。
店員が危惧した通り失神してしまったのか。やりすぎたか、と一抹の後悔を抱きながら布団を撥ね退け近寄ると、彼女の肩がかすかに動いた。上下に、リズミカルに、緩やかな呼吸とともに。
「って、さっきと変わらないじゃないか! キミの神経はキングゲドラよりも図太いのかい。こっちが慄くよ」洋一はジーザスとばかりに天井を仰ぐ。
ンガ、といびきかく彼女を横目に、洋一は深呼吸した。
いいか冷静になれ……考えろ、考えるのだ。

するとボジラの瞳が怪しく黒光りし語りかけてきた。
――口惜しや。この足さえ動かすことができれば。
額に一筋の汗がつたう。その策は洋一にとって危険な賭けといえた。失敗すれば無事では済まない。
――青年よ。さあ、我に力を。
「わかったよ、やってみよう」

転がっていた交通整備の誘導棒を拾い上げ、一歩二歩と踏み出すも足が挫ける。これまでに星となった目覚まし時計の無念を晴らすという使命があるだろう、遠退く意識を揮い起こし、膝で這い、誘導棒でボジラの背中を小突く。
彼女の耳元へすり寄せることに成功すると、レンズの奥で目玉をぶるぶると震わせ、拳を握りしめた。
「夢の中で悶え苦しむがよい」

数分が経過するも覚醒する兆しはない。拳をほどき諦めかけたその時、彼女は寝返りをうち呻き声を洩らしだした。苦しそうに下唇を噛みしめている。いけ起きろ、それ起きろ、やれ起きろ、ほら起きろ、どら起きろ、そう念じるとついに上半身がむくりと起き上がった。
「やった!」洋一はガッツポーズをとる。

彼女は煩悩を解脱した仏のようなまなざしでボジラを見つめている。ボジラをつかむと、すくっと立ち上がった。ピッチャーさながら勢いよく振りかぶる。
「えっ」洋一は蒼褪めた。
愛子の先にあるのはカーテン、その向こうはガラス戸だ。手からボジラが放たれたと同時に洋一は床を蹴った。間一髪、見事に、ボジラを、キャッチ……できない。掌は空をかき、ボジラが頭に炸裂した。そのまま倒れ、激痛となお喚き続けるボジラに悶え苦しむ洋一を余所に、愛子は何事もなかったように再び布団へと潜り込んだ。

 

目覚まし時計が鳴り止み、カーテンをタッセルで括ると柔らかな陽射が部屋に溢れる。電線にいる雀三羽が快活に啼いていた。
「うむ、いつもの朝だ」洋一はおでこのコブを撫でた。「この痛みがなければね」

寝室からリビングを通り抜け、トイレに入る。トイレットペーパーが床すれすれに垂れていた。しかも切取線があるにも関わらず、お構いなしに千切られている。乱高下する折れ線グラフみたいなギザギザな切れ目に小さく溜息を吐き、ペーパーを巻き戻し三角に折り畳んでおく。

用を足すと洗面台に備えてあるハンドソープで丹念に手を洗う。眼鏡を鏡横の収納棚に置き、洗顔フォームを泡立て優しく顔を撫でた。次にT字剃刀で髭を剃る。顎に掌をやる。髭を剃る、掌をやる、剃る、掌、剃り残しがなくなるまでそれを何度も繰り返した。納得いくと洗い流し、タオルでぬぐい、眼鏡を嵌めた。

鏡を凝視する。
二週間前に切り揃えた前髪がちぐはぐとなり、あと二ミリ足らずで眉毛に引っかかってしまいそうだ。そろそろ散髪に行く時期だな、そう考えながらキャビネットの側面に掛けてある雑巾で洗面台に飛び散った水滴を拭きとった。斜め四十五度から覗き込み、一滴残らずしっかりと拭きとった。

リビングでは観葉植物であるモンステラの茎がぐったりと枝垂れていた。何の気まぐれか愛子がひと月前に買ってきたものだが、本人が水をやったのは初日こっきり。彼女にやらせようと数日放置しておいたらこれだ。水差を傾けながらテレビリモコンの電源をつけた。『ニッポンの朝』では堅固な顔つきの男性アナウンサーが国政について報道していた。

キッチン棚からフライパンを取り出し、表面を指でさする。油のぬめりがないのを確かめ、コンロを点火した。ベーコンを焼き、卵をかぶせる。テーブルに二人分の皿とコップを用意し、出来上がったベーコンエッグにサラダを添える。タイミングよくトーストが焼けた。最後に牛乳を注ぎ、朝食の完成である。
洋一の口角が自然と上がる。

フライパンを丁寧に洗う。油残りがないかと何度も指を滑らせた。無地のポロシャツに着替える頃には七時二十分をまわっていた。いつもよりも七分遅いのは朝の一悶着があったせいだ。無駄となった労力を惜しみながら壁面のカレンダーを見やる。日付のところどころが赤と黒の丸で囲ってある。互いの仕事休みを記してあるのだ。赤丸が愛子で、黒丸が洋一。十九日に丸はない。つまり今日は二人とも出勤日だ。

寝室の戸をずらすと愛子は豪快にいびきをかいている。
彼女の肩を揺すった。「そろそろ起きなよ」
返事はない。
「もうすぐ七時半だよ。起きる時間だ」

返事はない。
布団をひっぺ返すと、臍が見えるほどロングシャツは捲れ上がり、両腕でWを模っている。車に轢かれた蛙のポーズで敷布団にへばりついていた。いつ洗っているのやら右の手首には汚らしい深紫色のリストバンドがある。「うん、いつもの朝だ」とげんなりして言った。
彼女の耳元に両手のメガホンをあて叫ぶ。「お、き、る、ん、だ!」

ブヴォッ!

愛子の下半身から破裂音がした。もわんと漂ってきた悪臭が鼻を突く。この硫黄臭……間違いない、これは。
「放屁……」洋一はハンカチで鼻を覆いながら嘆いた。「なんて下品な女性なんだ、キミは!」

 

朝食を先に済ませ、食器を洗っていると、ようやく「おはよう」と愛子が寝ぼけ眼で起きてきた。よろめきつつ、ボブカットの頭をがりがりと掻く。漫画のキャラクターが驚いた時みたいに四方八方へと寝癖をつけていた。何かもぞもぞと呟く。おそらく、眠いだとか、もう朝なのといった文句の類だろう。

「朝食の準備をしていたから騒がしかったかな」
洋一の嫌味を気にも留めず、欠伸をしながら「いいって、気にしないで」とパンツに手を突っ込んで股間をまさぐる。その手でリモコンを握り、チャンネルを変えた。『モーニングヤード』では陽気な女芸人がスイーツ店を紹介していた。洋一の瞼がぴくりと跳ねる。
トイレから、がらがらがらがらとトイレットペーパーを勢いよく巻き取る音が聞こえてきた。彼女が出るやすかさず覗くと、熟練した美術スタッフが一時間前を再現したかのようにペーパーは見事に垂れ下がっていた。洋一の瞼が細まる。

愛子が顔を洗えば、洗面台どころか床まで水浸しになっていた。もう洋一の瞼は完全に塞がっていた。
頬をパンパンと叩き、愛子は食卓につく。「朝ごはんありがとね、洋一」と、すっきりした表情で言った。
「間に合うのかい?」
「大丈夫、一分もあれば」彼女は親指を立てた。

トーストの上にサラダとベーコンエッグをのせ、二つ折りにすると、「いたらきまーす」とカバみたいな大口に押し入れる。二、三回と咀嚼し、牛乳で一気に流し込んだ。本当に一分もしないうちに跡形もなく腹の中におさめてしまった。まるでゴミ収集車だ。
洋一が恨めしそうに見つめていると、彼女は腹をさすりながらゲップする。

「おかしいな」洋一はこめかみを押さえる。「僕はいつから品性の欠如した中年男と暮らしているのだろうか」
「なに寝ぼけてんのさ。あ、レンズの度が合ってないんじゃないの」
「時計の秒針までくっきり見えるさ」

「じゃあ朝からつまんない冗談言わないでよ。今目の前にいるのはオジンじゃなくて二十一のぴちぴちギャルでしょうが」
「二十一歳のぴちぴちギャルはゲップしたり、股間をまさぐったり、放屁したりしない」
「いやんね。いくらなんでも、あたしオナラなんてしてないわよ」
「放屁したのだよ。キミは寝ていたから気づいてないだろうけどね。僕が起こそうとしたら、それを拒むかのように放屁を放ったんだ。驚愕だよ。おまけに催涙ガスかと思うほどの強烈な臭いだ。くらりとしたよ。一体どんな体内構造しているんだい? スカンクかオポッサムくらいだ。あんな放屁するのは」

「もう、放屁、放屁ってうるさいわね。オナラなんて人間なら誰でもするの。どんな偉い政治家だって、どんな美人な女優さんだって誰でもね。ちょっとプッてオナラが鳴ったくらいで、くどくど言わないでほしいわ。そんなの可愛いもんじゃない」
「いいや。キミの放屁はプッなんて可愛らしいものじゃあないよ。濁音まじりのブヴォッて音だった。いいかい? ボ、じゃあなく、下唇を軽く噛み弾くようにヴォだ。さあ一緒にやりたまえ……おしいな。ブボではなくブヴォッ。肩の力を抜いて腹の底から吐き出すように、サンハイ……そう! 完璧だ。やればできるじゃないか。これでわかっただろう? キミの放屁には可愛らしさの欠片もないことが」

「ああん、もうやらせないでよ。みみっちい男。女の子のオナラくらい気づかない振りするのが男ってもんでしょ。デリカシーがないのよ。やんなっちゃうわ」
「キミの口からデリカシーなんて言葉が出てくるなんてね」ふんと鼻を鳴らす。「大体、トイレットペーパーは三角折にしないし、洗面台は水浸しだし、ボジラは投げ飛ばすし……」
「ちょっと待ちなさいよ。ボジラってなにさ?」
「ボジラはボジラじゃないか」
「あの恐竜の?」
「ボジラは怪獣だ」寝室にある目覚まし時計を指さす。「よく見てみ……あ!」

時計はきっかり八時を示していた。
「ありゃ、もう八時じゃない。洋一こそ遅刻しちゃうわよ」
洋一は慌ててジャケットと鞄を抱えながら玄関へと駆け出す。
「あ!」
今度は愛子が大声を上げ、洋一の腕をつかんだ。「どうしたんだい」と振り向くと、あどけない顔で洋一を見上げている。血色のよい唇が弧を描いた。
「いってらっしゃい。ラブマネさん」
洋一は思わず吹き出し、「そんなこといいから早起きしてくれよ」と玄関扉を押し開けた。

 

『おかえんなさい、ラブマネさん』

 

錠の外れる音がし愛子が出迎えてくれた。鍵を掛けているなんて珍しい。交際して三年間、洋一が幾度となく物騒だからと忠告してきたものの面倒の一言で片づけてきた彼女が、だ。まあ、モンステラと同じで初日こっきりだろう。
おまけに何をしていたのか、息切れまでしている。全くわけがわからないなと思いつつ手洗い、うがいをし、洗面台をぬぐった。リビングに足を踏み入れるや、部屋の有様に唖然とし、手から鞄がズルリと抜け落ちる。

洋服が山となり、フローリングの床には足の踏み場がないほど雑誌やペットボトル、菓子袋が散らばっている。棚という棚は全て開け放たれ、夜の八時だというのにカーテンは全開だ。僅かな隙間に爪先立ちし、洋一は綱渡りする大道芸人のように一歩二歩とバランスをとると、ぐにゃりとした感触が足裏につたわってきた。

「な、なんなんだい。これ」
泥土みたいな汚れが靴下に付着している。
「なにさ」首を傾げ、愛子は躊躇いなしに足裏を嗅ぐ。「チョコレート! さっき食べてたの落としちゃったんだ。ごめんね」と傍にあった布巾で床をこする。
「湿らせないとしっかりとれな……って、それは僕の下着じゃないか!」
広げるとブリーフの股間部にチョコレートが黒々と沁みついていた。
「もう捨ててくれ。いいね」
「気にしない気にしない。誰に見られるんじゃなし、え、もしや浮気? そんなわけないよね」と自己完結し、プロバスケット選手のようにたくみなフットワークで障害を飛び越え、ブリーフを脱衣所の洗濯籠に叩き込む。
「今日、仕事だったんだよね」洋一は籠からブリーフを出し、水洗いしながら訊ねた。
「そうよ。決まってんじゃない。朝から六時までみっちり働いたわよ」指笛を吹きながら片腕を伸ばす。

彼女は交通整備のアルバイトをしている。
「その六時から八時の二時間の間に、なにが起こるとこんな惨事になるんだい。泥棒も仰天するよ」
「整理しようかなと思ったんだけど途中でやんなっちゃったの。でも、こうしているとちょっとくらい散らかってた方が安心するっていうか。なんだか、あたしの部屋みたい」
「ここは僕が契約している賃貸物件だし、これはちょっとの散らかり具合じゃない。全くもって神経を疑うよ」
「洋一は神経質すぎるのね」
「キミが無神経すぎるんだよ」てきぱきとゴミ袋にペットボトルと菓子を分別する。「とにかくこれじゃあ、落ち着いて夕食もできやしない」
「まあ、そんなにカリカリしなさんな。あたしも手伝うから」
「いいかい? 本来これはキミがやるべきなんだ」銀縁眼鏡をくいっと上げる。
「あいあいさ」

愛子の適当な返事に呆れつつも片づけていると、一冊の料理本が目についた。爽やか好青年の料理研究家が監修したレシピ本だった。ぺらぺら捲ってみると、オリーブオイルをフライパンに垂らす好青年、スパゲティを啜る好青年、そのどれもが実に爽やかだった。おかげで調理写真は端へと追いやられており、レシピというよりも彼の写真集であるかの印象を受ける。おまけにDVD付き。近頃こういった種の売れ行きが好調らしいが洋一には理解し難かった。

「料理なんてしないじゃないか」
本をちらつかせると、すかさず愛子が奪いとる。「うるさいわね。するかもしれないでしょ」
「しないね。一度だって見た試しがない。キミが料理するなんて想像できないよ」
「お弁当作ったことあるじゃない」
「あれが料理と呼べるのならね」
「あー言ったわね。じゃあ、明日ちゃんとしたお弁当作るからキンタマひんむいて見てなさい」
「それを言うなら眼ん玉だろうに。弁当は遠慮しておく。結局寝坊して迷惑をかけられるのは僕の方だからね」
「もう! ちゃんと起きるってば」愛子は唇を尖らした。「ところで今日はどうだったの」
「なにが?」
「ラブマネさん、よ」

 

「三カ月後の短期目標として、接吻というのはいかがでしょうか」
「せっぷんってなに」
テーブルに置かれたパイナップルジュースに視線を落としながら、大空夏樹おおぞらなつきはストローを回転させた。グラスの中で氷がぶつかり合いカランカランと音を立てる。

「唇と唇を接触させることですね。別称として口づけ、チューと様々ですが、昨年度の厚労省の統計によるとキスと表現する方が九割にも上るとのデータが出て……」
肩まで伸びた金髪を掻き上げ、手首につけたシュシュでポニーテールにする。「じゃあ最初からそう書けばいいじゃない。いつもまわりくどいっての」そう言うと気怠そうに肘をついた。

昼前、喫茶店『ドッグ』にて、二人はテーブルを挟み座っていた。ホットコーヒーとパイナップルジュースの間には三枚の紙がある。彼女はピンクのマニキュアをした長い爪でそれをとんとんと突いた。
「っていうかねえ。キスなんて付き合う前からしてるっつーの」頬をすぼめ、ジュースを啜った。
洋一は瞬きをした。「え、交際前からですか」
「そうよ」
「そう……なのですか」ずれ落ちた眼鏡を眉間に押し戻す。「先週おうかがいした時は手を繋いでデートしたばかりと、おっしゃっていましたよね」
「そうよ」
「いや、それでは辻褄が合わない」
「だからあ、手を繋いでデートするよりも前にキスしてたんだって。それが事実なんだからしょうがないじゃない」

洋一はいやいやと首を振った。「確かにアメリカの思想家ヘンリー・デイヴィット・ソローは言いましたよ。恋は焔であると同時に光でなければならない、とね。まあ、焔はともかくとして光はどうでしょう。僕は正直賛同しかねます。ゆっくり、ゆっくりと。そうですね、亀のように鈍行であるべきではないでしょうか。何度も何度も立ち止まり、お互いの気持ちを確かめ合うことが必要ではないでしょうか」

訴え虚しく、夏樹は興味なさそうに窓向こうの通行人に目をやっていた。耳たぶをさすり、白いワニの形をしたイヤリングを揺らす。
「あの、聞いていました? 亀のようにですね。一日一歩、三日で三歩……」
「今度はお説教なわけ? 勘弁してよ。てかね、なんでそんなことまで逐一あんたに報告しなきゃなんないのよ」
「それは……僕が大空さんの恋愛支援専門員だからです」洋一の眼鏡がきらりと輝いた。
彼女はハンッと鼻を鳴らした。「別に相談にのってもらわなくていいから。早く話進めてよ」
洋一は落胆し用紙に視線を戻した。「失礼しました。では短期目標は訂正するとして」
「いいって直さなくて。要はここにサインすればいいんでしょ」
さっさと切り上げたいらしく、いつの間にかボールペンを握り署名欄にサインしようとする。

「待ってください。そういうわけには」
「だって作り直したらまた会わなきゃいけないんでしょ」
「お気遣いなさらず。それが我々の仕事ですから」
「あんたじゃなくて、わたしが面倒だって言ってんの」
「せめて最後まで説明させてください」
夏樹のげんなりした溜息でジュースの水面が波打つ。「さっさとしてよね。この後コウちゃんとデートする予定なんだから」
「承知しました。次に一年後の長期目標についてですが……」

長期目標を指し示すと、夏樹は目を丸めた。わなわなと肩が震え、睨み、掌でテーブルを叩きつけた。グラスとカップが倒れそうになり洋一はとっさに支える。
「ふざけんな!」
夏樹の甲高い怒声が店内に響き渡る。

洋一が慌てて周囲を見まわすと、ウェイトレスは何事かと足を止め、隣のテーブル席にいる二人組サラリーマンは会話を中断して聞耳を立てていた。
「大空さん、冷静に」猛犬をなだめるように両手で空気を撫でる。
般若の形相で夏樹は紙をぐしゃぐしゃにし、罵声とともに投げつけると、足早に店を後にした。そんな彼女を呆然と見送っていると嘲笑するサラリーマンの声が耳に入る。ウェイトレスも悪霊にのりうつられたかの如く上半身をガクンガクンと揺すっていた。

気恥ずかしさから眼鏡を外した。視界がぼやける。これでウェイトレスもサラリーマンも見えない。ほんのりと流れる店内ミュージックに集中し、眼鏡拭きでレンズを丹念に磨く。フウと一息つき、手をつけてなかったコーヒーを口にふくんだ。
「冷たい」

 

事務所は『ドッグ』から自転車で二十分ほどの距離だった。洋一は自転車の鍵を掛け、建物の壁面に寄せると前輪と雨樋(あまどい)の筒をチェーンで繋ぐ。籠から鞄を取り出すと戸を開き、『美鷹恋愛支援センター』の看板を潜った。

「ただいま戻りました」
ハイともウイとも識別し難い、気のない返事が返ってくる。事務所に残っていたのは所長である四谷高夫よつやたかおと、一ノ瀬友子いちのせともこであった。もう一人は席を外している。『美鷹恋愛支援センター』は総勢四名の小規模事務所だ。将棋の駒のように五つのデスクが向かい合い、その天辺に四谷所長が位置する。入口寄りにあるのが洋一と物置と化した無人デスクだった。デスクを横切り、壁掛けのホワイトボードに手を伸ばした。洋一の枠にある『外出』とプリントされたマグネットを外し、その横に書いておいた大空夏樹の名前を消す。

こそりと四谷所長を盗み見ると手が全然動いていない。手どころか、全身ピクリともせず今にもとろけそうな目でパソコンモニターを見つめているだけだ。人知れず彼の仕事振りを観察することが習慣となっているが数分と微動だにしないことも多々あった。まるでナマケモノだ。

ふっと彼と視線が交わる。
「なにか用かね。影沼くん」不思議そうに薄くなった頭頂部をかりかりと掻く。
「あ、いえ。なんでもありません」
ジャケットを椅子にかけ、洋一は腰を下ろした。パソコンの電源を押すと、ブウウンと起動しモニターが明るくなる。
「ヨウくん、おつかれさま」
隣の席から一ノ瀬が声をかけてきた。「この時期は訪問が入ってくるから忙しいよね」鳥の巣のようなパーマとたるんだ頬を上下させながら愛想よく喋る。
眉根を寄せ、「全くです」と頷いた。

恋愛支援専門員は月の下旬になると各々担当する利用者と顔を合わせ、近況を把握する。モニタリングと呼ばれ、恋愛における進展度はどうなのか、問題点や悩みの有無を調査するのだ。また、さきほどの面談のように計画の期限が切れる折には、それを見直し新たな目標を掲げる必要がある。
モニタリングの大半は愚痴聞きや簡単なアドバイスで終わることが多いのだが、必要と判断する場合は行政上の措置に繋げることもある。

「どう? 慣れた?」
洋一の慣れ具合を一ノ瀬は度々訊ねてくる。大学卒業後、勤めだして半年経つが入社三日目から調子は変わらない。
「そうですね。慣れてはきましたけど、今日利用者を怒らせてしまいました」
「え、なになに? なにかトラブルでもあったの」

隣同士であることに加え、四十代半ばの彼女は上司というよりも近所の小母さんのような存在で話しやすく、たまに相談している。息子の年齢が洋一と変わらないらしく気にかけてくれるものの、瞳を輝かせ興奮する様を目の当たりにすると、ただ単に失敗談を楽しんでいるようにも感じられる。

洋一は『ドッグ』での遣り取りを一から説明しつつ、マウスを操作し保険請求システムである『ワイズメン』を立ち上げた。ハートマークのセーターを着た犬のマスコットキャラクターが直立し、その雄と雌二匹の互いに見つめ合う目だけがやけにリアルに描かれ、何とも異様でいつ見ても気味が悪かった。

「結局、怒鳴って帰ってしまったのです」
「じゃあ、サイン貰いそこなったんだ」
「それどころか目標設定の打ち合わせもできなかったんですよ。訂正するにも不可能じゃないですか。来月の予定だって把握できなかったし」
あららと同情している口振りだが、目尻に笑い皺がしっかりと刻まれていた。
「僕もくどくど言い過ぎたのは反省していますよ」
「その子も短気よね」
「そうなんですよ!」
店内での羞恥心が蘇り、洋一は思わず声を張り上げた。四谷所長のしょぼくれた目が二人を見据えていた。
洋一は上体を屈め、声を潜めた。「そうなんです。そこなんです。少々短気なんですよ彼女」

「でもさ、どんなラブプランだったの」
犬のマスコットの横に並ぶ項目にカーソルを移動させ、そのひとつである恋愛計画書をクリックすると画像が切り替わった。続けて、キーボードで大空夏樹と打ち込み検索をかけると提示した計画が表れた。
一ノ瀬はキャスター付きの椅子を滑らせ、パソコンにかぶりついた。

長期目標: 矛差乃山をドライブし、麓の性交渉円宿施設にて初夜を迎える。

「んまあ! シ・ゲ・キ・テ・キ」一ノ瀬は掌で両頬を挟み込む。
「そうでしょう。我ながらいい出来栄えだと自負しています」
「いやいやヨウくん。ラブホテルで初夜を迎えるって、いくらなんでも大空さんも怒るわよ。プラン投げつけられても仕方ないわ」
「どうしてでしょう。来年、交際中の彼が教習場に通う予定だそうです。いつか大空さんが打ち明けてくれたこと僕は忘れていません。免許が取れたあかつきに矛差乃山をドライブし、展望台からの夜景を一緒に観たい、そう言ったのです。この目標はね、彼女の意思を汲みとり、熟考に熟考を重ね、立案したんですよ」

彼女は半ば呆れつつも、「ヨウくんが努力してるのはわかるわよ。でも、これはねえ……初夜の部分を削除したらどうなの」と言った。
「矛差乃山にドライブ、だけですか? それでは一年後の目標としてはハードルが低くないでしょうか。達成感を得られませんよ」
「ま、確かにね。でも露骨すぎるのは抵抗あるって。ましてや大空さんいくつだっけ」
「十九歳です」
「年頃なんだから気を遣わないと。それに初夜なんて一年経つ頃にはとっくに済ませてるわよ」
「ご安心を。前もって諭してきましたから。亀のようにゆっくりと交際するように、と。ひと月もすれば理解してくれるはずです。それに一年後に契を交わすなんて素敵じゃないですか」
「素敵ではあるけども現実的じゃないわ。中学生じゃないんだから、彼女十九よ」
「言ってることが矛盾していませんかね」洋一は首を傾げる。「では一ノ瀬さんならどんな目標を立てますか」
「わたし?」団子鼻を指し、そうねえとインタビューを受ける大女優のように優雅に足を組み換え、親指をそっと顎に添えた。「わたしなら『相手を思いやりつつ矛差乃山をドライブし、お互いの気持ちを確かめ合う』にするかな」
洋一は人差指で眼鏡を押し上げた。「思いやるだの、気持ちだの、曖昧にもほどがある」
「いいのよ。適当に濁しておいた方がいい場合もあるの」
「研修で指導されましたけど、第三者でも適正に評価できる具体的な目標を設定するべきではないでしょうか」
「ケースバイケースよ」
興味が逸れ、もうお終いとばかりに彼女は床を蹴る。椅子のキャスターを転がし、自分のデスクへと向き直った。その後も納得のいかない洋一を見て「真面目なんだから」と眉を垂らした。

 

「明日は新規訪問しなければいけないし憂鬱だよ」
小さく息を吐きながら振り返ると、愛子は洋服の山に埋もれ、いつの間にやら寝息を立てていた。抱きかかえようとするも、筋肉質のせいか小柄なくせに意外と重い。しかも暴れる。殴られないよう首根っこをつかみ、寝室へと引きずると、彼女は何やら呟いた。
洋一は耳を寄せる。
「焼きそば……食べられなくなるのやだもんね」
寝言だった。
焼きそばね、呑気なものだ。
よだれを垂らす彼女に布団をかぶせ戸を閉めると、散乱したリビングの片づけを再開することにした。

『おかえんなさい、ラブマネさん』その2へ続く

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その2
オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その2宮比ひとしのオリジナルの小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その2。恋愛支援専門員(通称ラブマネージャー)である青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。...