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オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その2

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その2

こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その2を紹介します。

恋愛支援専門員(通称ラブマネージャー)である青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。

 

『おかえんなさい、ラブマネさん』その1
オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その1宮比ひとしのオリジナルの小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その1。恋愛支援専門員(通称ラブマネージャー)である青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。...

おかえんなさい、ラブマネさん その2

 

十月二十日 木曜日

貧乏揺すりをしながら洋一は何度も時計に目をやっていた。
八時五分二十秒。
愛子は左手の人差指を鼻の穴に挿入し、ぐりぐりと回転させる。真剣な顔つきで。彼女は慣れない菜箸で弁当箱におかずを詰めていた。
「まだかい」洋一は訊ねる。
「もうちょっと」

八時六分十秒。
菜箸を置き、アルミカップへと手を伸ばす。鼻から指が離れたと一安心するのも束の間、留守になった右手をすかさず鼻の穴へと捻じ込む。ああ、また鼻をほじくった。まるで金塊を掘り求める鉱員のような執念を感じる。一体どれだけほじくれば気が済むのだろう。

八時七分ジャスト。
「まだかい」洋一は訊ねる。
「あとちょい」
「もう間に合わない。僕がやるよ」
「ああ、もう、気が散る! 洋一は黙ってて」

人参の煮物が菜箸からぽろりと床に落ちた。愛子がさっと抓み上げ、洗いもせずに弁当に放り込むのを見て洋一は眉を顰めた。
「おいおい。今落とした人参そのまま入れただろう」
「やんなっちゃう。本当に細かいところまで見てるのね、姑(しゅうとめ)みたい」
「しかも鼻をほじった手で!」
「はあ?」愛子は眉間に皺を寄せる。「そんなことしてないわよ」
「キミは集中すると鼻をほじくる癖があるんだよ。気づいてなかったのかい」
「そんなことしてないっての」
「いいや。右の鼻穴を十二回、左の鼻穴を二十回、計三十二回。僕はちゃんと数えていたんだ」
「やだ数えないでよ。百歩譲ってほじってたとしても毒じゃないんだから食べても死にゃしないっての」
「死ななくても腹は壊す」
「壊さない壊さない。塩味が効いて逆に美味しくなってるかもよ」
「キミのその感覚が理解できないよ」

はっと時計を見やる。八時十分をまわっていた。
「だから弁当は結構だって断ったんだ、もう行くからね」
「ちょっと待ちなさいよ。もうすぐできるから」
愛子は弁当箱におかずを押し込め、無理矢理に蓋を閉じる。
「よしてくれ。おかずが潰れてしまうよ。そもそも本当に弁当を作るつもりならもっと早起きするべきだったんだ」

弁当箱を袋で包みながら「来週の金曜日は休みだったよね」と、カレンダーの黒丸を確かめた。
「ああそうだよ。そんなことよりも弁当を早く。遅刻してしまう」
愛子は紐を結ぶと、満足そうに口元を綻ばせた。「はい、お待た」
バトンリレーのようにして弁当を受け取ると同時に洋一は玄関を飛び出した。アパートの階段を駆け降り、自転車に跨ったところで愛子の声がした。見上げると、「いってらっしゃあい」と三階から彼女が手を振っている。洋一は手短に合図を送り、めいっぱいにペダルを踏み込んだ。

 

砂場の中央から牙を剥いた猪が頭を出していた。その周りを近所の子どもがじゃれ合いながら戯れている。口から飛び出す子、牙にぶら下がる子、頭頂部へよじ登る子、様々だ。母親たちが遠目で見守りながら会話に花を咲かせている。
ここ猪頭(いのがしら)公園は事務所から自転車で五分とかからない。猪の遊具を除くと滑り台とブランコ、ジャングルジムがあるだけのこじんまりした公園だ。土日や夕方になると、たまに縄張り争いをする少年集団を見受けるが平日の昼間は実にのどかなものだ。

ベンチではスーツ姿の男がぼんやりと空を仰ぎながら横になっている。洋一もつられて上空を見上げた。綿菓子のような入道雲が昇っていた一、二ヵ月前に比べると、水彩画みたいに滲んだ蒼白い雲が空に拡がる。ほんのりと色づく楓に寄り添うよう据えてあるベンチに腰掛け、しみじみと季節の移り変わりを感じた。

爽やかな空腹感を抱きつつ弁当の袋に手をかけた。
「ん?」指先が震え、しだいに額が真っ赤になり血管が浮き出る。「どれだけ馬鹿力なんだよ!」
堅結びとなった袋の紐はびくともしない。鼻息を荒げ、結び目に歯を立て、渾身の力で引っ張る。やっとの思いでほどき蓋を開けると、案の定おかずは押し潰されていた。味に問題はないだろうと割り切ることにした。栗ご飯を半分敷き詰め、おかずは筑前煮、卵焼き、そして好物のハンバーグだ。

昼休憩、猪頭公園で弁当を食べるのが洋一の日課であった。さっそく頬張るとジューシーな肉の味わいが舌を包む。かかった手作りソースを卵焼きにも絡め口に放る。愛子は今頃何をしているだろう。同じように昼ご飯を食べているかもしれない、と彼女を想い描きながら噛みしめた。弁当を食べる度に脳裏に浮かぶセリフがある。

――あたし決めたんだ。明日から早起きして洋一のためにお弁当作りがんばる。
笑みが零れる。入社前日に彼女から言い出したのだった。
筑前煮の蓮根がしゃきしゃきと小気味のいい音を立てる。これも合格点。
弁当を公園で食べる習慣になったのは理由があった。元々、一人落ち着いて食事したいという思いはあったものの、それ以上に事務所の職員に弁当のことを話題にされるのが面倒だったからである。

初出勤の日、弁当を覗き見た一ノ瀬は歓喜にも近い声を所内に響かせた。
――んまあ! お弁当じゃない! なになに彼女の手作り?
――ええ、まあ。
水を量らず炊いたせいで白米はお粥になっているし、その水分がスクランブルエッグへ滲出しヘドロのようだ。さらにタコウインナーのつもりが頭部は抉れエイリアンじみていた。お世辞にも美味しそうとは言えないが、初めての手作り弁当はそれなりに誇らしくもあった。
――ミカちゃん見てよ。

一ノ瀬の手招きに斜め向かいのデスクに座る六本木美加ろっぽんぎみかは顔を上げた。彼女は三十代半ばで、腰まである黒髪をひとつに束ね、白いブラウスがよく似合うもの静かな女性だった。弁当を一瞥し憂鬱そうに溜息をついた。
――愛妻弁当っていいですよね。私には縁のない話ですけど。
――ミカちゃんもお弁当食べてくれる彼氏作んなきゃね。

翌日、弁当の蓋を開けた瞬間、一ノ瀬のパーマが視界を遮った。
――今日のおかずはなに?
それから一ノ瀬の弁当チェックが恒例となった。
――毎日、見るのが楽しみになっちゃった。ヨウくんの彼女、どんどんと腕が上達してくわね。初日は内心気の毒に思ったけど。あ、言っちゃった。気にしないでね。でも最近は本当に美味しそうだもの。
――見ないでくださいよ。食べづらいです。
――いいじゃないの。減るものじゃあるまいし。こんな手料理食べれるなんてヨウくんは幸せ者ねえ。

「幸せ? そんなわけないでしょうが」
ご飯に箸を突き刺すと、くちなし色の栗がぱっくりと真二つに割れた。愛子が弁当を作ったのはあの一度きり、それから毎日自分で作っている。さらに今朝の出来事を思い出し、体液がふつふつと煮えくり返る。予想通り彼女は寝坊し、そのくせ朝食を済ませた頃に起きて、お弁当はあたしが詰めるからと駄々をこねるのが余計に厄介だった。

 

地図を手に辿り着いたのは二階建てのモダンなアパートであった。『ホリー・マンハッタン』という名の、いかにも若い女性に人気がありそうなブラウンストーンのしゃれた造りをしている。洋画にでも出てきそうだ。
腕時計の時刻は四時前だ。息を弾ませながらも何とか間に合ったことで肩から力が抜けた。午後から二件モニタリングをこなし、その足で直接向かったのだ。フェンスの網目にチェーンを通し自転車タイヤを繋ぐと、集合ポストで花岡百永美はなおかもえみの名前を探した。

彼女の名前は明記されていなかった。彼女だけでなくポスト自体に名札がない。三日前、事務所に電話があったのだが部屋番号と連絡先を聞きそびれたことを悔やんだ。さて、どうしたものか。
アパートを前にハアハアと息を整えていると、ハーネス片手に猫を連れた女性が通りすがる。タイトスカートのその女性は訝しげなまなざしを向けながら、中へ入るのを躊躇っていた。

「すみません」
「な、な、なんですか」
声をかけると、彼女は脅えつつハーネスを手繰り寄せ、猫を抱き上げた。苦しかったのかゴム草履がこすれるように猫は鳴く。
「はるばる花岡さんを訪ねてきたのですが部屋の番号がわからなくて困っているのです」
洋一の足元から頭の天辺まで品定めするようにじっくりと観察する。教えていいものか思考を巡らせているようだ。洋一はハッと閃き鞄を漁ると、彼女は不安感を一層露わにして一歩退いた。

「待って逃げないでください! アレを探しているのです」
「アレってなんですか!」
「おかしいな、ちゃんと入れてきたはずなのに」
「アレってもしかしてスタンガン! それともクロロホルム! いやいやピストル! ああ、私まだ死にたくない」彼女は悲鳴を上げ、取り乱す。

「あった。これをご覧なさい」
黄門様の紋所の如く突きつけたのは名刺である。彼女は名刺の顔写真と実物の洋一をまじまじ見比べると「ラブマネさんですか」と胸を撫でおろした。もがき続ける猫に気がつき、「ごめんなさいね、ジェーン」と地面へと離す。「花岡さんはU204号です」そう言って彼女はポストの奥にある階段を指さした。

頭を下げ別れると、二階へ上がり教えてもらった部屋番号のインターホンを押した。ほどなくして、どちらさまですか、とスピーカーから若い女性の声がした。
「こんにちは、四時にお約束した恋愛支援センターの者です」
ゆっくりとドアが開いた。重圧な門でも押し開けるかのように身体全体で女性がドアを支えている。思わず手を差し伸べると、彼女の華奢な手首にふれてしまった。
「失敬!」
彼女は前歯を零して、にこりと口角を上げる。「お待ちしてました。どうぞ上がってください」
お邪魔いたします、と玄関に上がった。玄関には靴ひとつない。全て靴棚に収納してあるのだろうか。洋一は畏まりながら靴を脱いだ。その靴をサッと彼女が揃える。
「散らかってますけど気にしないでくださいね」
強盗に荒らされたかのような昨晩の光景が頭を過る。内心げんなりしながら部屋を見渡した。

「きれいです。驚きました」
「そんなお世辞言って」
お世辞ではなかった。招かれたリビングの家具は白を基調とし、ベランダから穏やかな風が吹いては淡いピンク色のカーテンがなびく。書籍棚やキッチンの調理器具はきっちりと整頓してあり清潔感に溢れていた。中でも陳列する香辛料の瓶はインテリアのようで好感を抱いた。

勧められソファに腰を下ろすと、ほんわりと甘い桃の香りが漂った。彼女はキッチンに立ち、上棚にあるカップへと腕を伸ばす。肩へかけてソバージュがかった栗毛色の髪が流れ、膝丈のスカートから色白の艶やかなふくらはぎが、ぷくりと張っていた。思いの他、早く振り返ったので慌てて視線を逸らす。
テーブルにポットとカップを置き、紅茶を注ぐ。
「お構いなく」
「もう入れちゃいましたから。アッサムです、どうぞ」
砂糖とミルクの入った陶器も添えられていた。

「本当にお気遣いなさらず……ああ、申し遅れました。恋愛支援専門員の影沼と申します」と名刺を差し出した。「失礼ですがご本人様でよろしいでしょうか」
「ええ、私が花岡です」名刺を一瞥して訊ねた。「恋愛支援専門員ってニュースで聞くラブマネージャーさんのことですか?」
「はい。恋愛支援専門員、通称ラブマネージャーです」
鞄から書類を出すと、百永美は横髪を耳にかけ「なんですか、それ」と興味深そうに目をやった。

「これはアセスメントシートと言います」
「あせすめんと?」百永美は棒読みする。
「ええ。花岡さんのことをなにも知らないのでは円滑に支援することができませんから」
彼女はこくりこくりと頷き納得する。
「では、今回は基本情報をおうかがいします。生年月日から教えて……」
そう言いかけると、彼女は隣に移りアセスメントシートを覗き込んだ。横顔が間近に寄る。気を抜くと吸い込まれてしまいそうな澄んだ大きな瞳をしていた。

「これに載っていることをお伝えすればいいんですよね」
百永美は生年月日、連絡先、家族構成と項目内容を次々と口にする。
「しょ、少々お待ちください」とペンを走らせる。
「私が書きましょうか?」
「いえ、これも我々の仕事ですので」

 

長時間にも関わらず百永美は嫌な顔することなく答えてくれた。彼女は二十一歳の女子大生、にわかに信じ難いが愛子と同い年だ。実家から通えない距離ではないものの社会勉強も兼ねて下宿しているのだそうだ。
ひと通り記録を終えると洋一は礼を述べ「ところで申請手続きをご希望ということですので、これから交際を開始されるのでしょうか」と訊ねた。
「いえ、付き合い始めて四ヶ月になります」温かな紅茶を淹れ直しながら言う。

「そうですか」思わず落胆の声を洩らした。「その時にご連絡いただければ良かった」
「すみません」百永美は頭を下げた。
「いや、いいんですよ。ただ認定があれば様々なサービスが受けられますし、交際控除……つまりデート費用などのご負担も減るので。なにか申請しなかった理由があったのですか?」
言おうか言うまいか一瞬戸惑いの色が表れたものの、彼女は口を開いた。「彼が煩わしいからって」

申し訳なさそうにするので敢えて大きく頷いた。「確かに。我々が介入することになると、根掘り葉掘り質問されますからね」
「でも仕送りだけだと手いっぱいで。彼をようやく説得したところなんです。他の人にこんな話をするのも恥ずかしいですし、迷惑をかけたくないって思いがずっとあって、どうしようか悩んでいたんです」
「迷惑なんてありません。みなさま始めはそう思われますが気にしないでください」
「そう言っていただけると助かります」

眼鏡を外すと百永美の顔をじっと見つめた。「フランスの詩人アンリ・ド・レニエはこう言いました。自ら苦しむか、あるいは他人を苦しませるか、そのいずれかなしには恋愛というものは存在しない、と。花岡さんが苦しむ必要はありません。恋愛支援専門員は我が身を犠牲にし苦しんでも利用者の恋愛を支援するため日夜励むのですから」
洋一のセリフに感動し瞳を潤ませる……何てことはなかった。

「は……はあ」
彼女はポカンとし、その先に続く言葉はなかった。呆気にとられる彼女を前に重苦しい雰囲気が肩へと圧しかかる。
「いやね。埃がついてたんですよ」洋一は重圧に耐えかね眼鏡のレンズを拭いた。「これだから眼鏡は大変なんです。参ってしまいますよ、全く。これはもうコンタクトに変えるしかないかな。しかし今まで眼鏡だったのに急に色気づいたと思われても心外ですし、眼球にレンズを密着させるのはいささか抵抗がありますね。それにコンタクトは不安というのか例えるならば普段はきなれたブリーフからトランクスへ替えたかの心もとない感覚とでも申しましょうか。え? あっいえいえ、この家が埃っぽいとかそういう意味ではございませんよ」カップを手にし、勢いよく紅茶を流し込んだ。「おあつっつつう!」熱が舌を刺激し、飛び跳ねる。

「大丈夫ですか。影沼さん」
「へ、平気です。最近冷えたコーヒーしか飲んでなかったので、ちょうど熱いのを欲していたところなんです。飛び跳ねるくらいにね。は、は、は!」
百永美は片手で口元を覆い、くすくすと笑った。「影沼さんって面白い方ですね」
「そうでしょうか」

彼女の柔らかな笑顔のおかげで徐々に落ち着きを取り戻し、その後は滞りなく契約を説明することができた。美鷹恋愛支援センターが支援するにあたり個人情報の保護や損害賠償について列記されている。終わりに不明点がないか訊ねる。
「なにがわからないのかが、わからないといった感じですね。またその都度おうかがいします。あの、こちらはなんでしょう?」と契約書とともに出していた用紙にふれる。
「認定申請書になります。市役所にお届けしますので、こちらにも署名ご捺印ください」
はい、と百永美は立ち上がり、部屋の奥から桜色のハンドバッグを手に戻ってきた。ブランド品だろうか、惑星に十字架が突き刺さったかの光沢を帯びたマークがあった。そのバッグには明らかに不釣り合いな金色の御守が持ち手にぶら下がっていた。神社の御守だ。脳味噌の溝を綿棒でこそぐるようなむず痒い感じがする。

「バッグがどうかしましたか?」百永美は怪訝そうに洋一を見ていた。
「その御守……なんだか見憶えがある気がして」
百永美はすばやく瞬きをした。
「差し支えなければ、じっくり見せていただけませんか?」
「こんなのどこの神社でも売っていますよ」彼女は印鑑を出すとバッグを背後へとまわした。
「きっとそうですね。人の記憶というのは実にあやふやなものですから」

「認定の手続きは以上ですか?」
サインと印鑑のモレがないことを確認し、洋一は控えを手渡した。「申請書を提出しますと近々市役所から調査が入り、所得や恋愛経験など答え難い質問もありますが重要なデータとなりますのでご理解ください。それを元に審議会が開かれ、支援度が決定するとご自宅に認定証が郵送されます」
「わかりました。いつくらいに認定証は届きますか?」
「おおよそ一ヶ月後になります」
「すぐというわけにはいかないんですね」百永美は少々がっかりしたように言った。
「そんなことはありません。申請した日から保険適用となりますので、遡って還付請求が可能です。ただご注意いただきたいのは支援度によって利用サービスが異なります。お互い成人ですので一般的な行楽施設の利用はまず問題ないでしょうが、海外旅行や性交渉円宿施設……つまりラブホテルは支援度により対象外となりますから控えた方が無難です」
「いろいろとややこしいんですね」彼女は肩を竦ませた。

洋一は書類をしまいながら「ところで計画を作成したいのですが目標はございませんか」と訊ねた。
「目標と言いますと」
「彼とどう過ごしていきたいという希望ですね」
「どう過ごしたい……」彼女は右膝を隠すようにスカートの裾を直した。「ただ喧嘩せずに穏やかに過ごしたいです」
「意外ですね。喧嘩なんてしなさそうですけど」
「しますよ。たまにですけど」
百永美は口元を緩め、窓景色を見る。
その目は決して笑っていなかった。

 

事務所に到着すると、『ワイズメン』の支援経過の画面を開き、訪問先での遣り取りをまとめる。
「お先に帰るわね。そんなに細かいことまで記録してたらいつまで経っても終わらないわよ」一ノ瀬が身支度を整えながら言った。
いつの間にやら墨を垂らしたように外は薄暗くなっていた。時計は六時をまわっている。美加はブラインドを下ろし、一ノ瀬を追うように退社する。四谷所長は彼女らがいなくなると、そわそわと腰を浮かせ何度となく乾いた目を洋一へ投げかけてくる。

三十分ほどすると、彼はコートを羽織り「悪いけど用事があるから、そろそろおいとまさせてもらうよ」とチョップするみたいに手を動かし帰って行った。
キーボードを打つ音がやけに耳にこびりつく。事務所に残るのは洋一ただ一人となる。黙々と作業し、支援経過と百永美の情報が出来上がる頃にはすでに八時を越していた。一息つき、すかすかになった冷蔵庫の中身を思い浮かべた。通い慣れたスーパーマーケットの閉店まで一時間とない。急いで出入口を施錠すると、自転車へと跨った。

 

買い物袋を抱え、アパートの玄関ノブを引くと鍵が掛かっていた。珍しく続いていると思い、インターホンを鳴らす。
愛子が歯ブラシを咥えながらドアを開けた。「ほはえりほはい」
「汚いな」口から泡を飛ばす彼女を避け、袋から食材を取り出して冷蔵庫に収める。
洗面所で彼女は仰け反りガラガラとうがいし、マーライオンの如く豪快に吐き捨てた。腕で口をぬぐい「おかえんなさい」と言い直す。

ああ、と返事をし、洗面台の縁まで飛び散った水滴を雑巾でぬぐう。
「今日のお弁当どうだった」
「見事に圧縮されていたよ。キミにはきっと押し寿司作りの素質がある」
「うん、あたしもそう思うの。巻き寿司とか得意かもって。でも味はまあまあだったでしょ」
「僕が作ったからね」
「塩味が効いて」愛子はケロっと笑った。
「やめてくれ。戻しそうになるから」
「美味かったのはあたしの愛情のおかげよ」
「結城貢、曰く料理は愛情らしいがね、それは基本的な知識や経験ありきの話だよ。愛情がいくらあったとしても分量や工程を守らなければ失敗するだろうし、愛情を注ぐ暇があるならレシピを熟読し、キッチンタイマーを手に順序通り調理した方が何倍も美味しくなると思うけどね」

「そんなケツの穴の小さいこと言わない言わなーい。うわちゃっ!」彼女は洋一の尻の穴をカンチョーする。「今日は仕事で疲れたからもう寝るね。おやすみなさい」
ヒリヒリする尻の穴を気づかい、内股でリビングに行くと寝室から愛子の頭がにょきりと生えた。
「夕食はテーブルに用意してあるから」そう言い残し、彼女は襖を閉めた。
肩が少し軽くなった気がした。何を作ってくれたのだろうと胸を弾ませ、テーブルへと目をやる。

カップラーメンがあった。小学生が殴り書きしたような駄々草な字で『ゆーしょく』と蓋にメモが貼られている。テーブルにはそれだけだった。まさか、とテーブルの下や椅子を探る。
何も見つからなかった。
ささやかな抵抗として「バイトだろうに、なにが疲れるのかね」と戸の奥まで聞こえるよう独り言を吐いてやった。聞こえてもどうせ気にも留めないだろうが。

冷蔵庫にしまった豚肉と野菜を刻み、フライパンで炒めていると、シンク内に食べ終えたカップラーメンの容器がそのまま放置してあるのに気づいた。汁を流してすらない。リビングは清潔であることを良しとしないタチの悪い悪霊に憑りつかれているかのように、またもや散らかっていた。
「どういう神経してるんだ」
さっき軽くなった肩に倍返しとなって疲労が圧しかかる。フライパンがじゅうじゅうと音を立てる。百永美の顔が脳裏に過った。
「部屋きれいだったな」カップラーメンの汁を流しながら呟いた。

 

富樫烈久とがしたけひさはうつ伏せになり、ライターを燈す。煙草を燻らせ携帯電話をいじった。
「そういえば、今日申請のお願いしておいたよ」
百永美はベッドから腕を伸ばし、床に落ちた下着を取った。ベッドの中でもぞもぞと身体をくねらせ足を通す。
舌打ちをし、「面倒なこと聞かれただろ」と、オールバックの髪を掻き上げた。
「でもデートや旅行代が安くなると思えば……やっぱり全額負担は大変だよ。周りの子もみんな手続きしてるし」
烈久がお金入れてくれるなら構わないけど、という言葉は口が裂けても言えなかった。

「仕送り増やしてもらえるように親に頼んでみりゃいいじゃねえか」
娘に甘い両親である。きっと断りはしないだろう。だが、断らないからこそ、もう頼みたくなかった。度重なる要求に、困惑し、苦渋を滲ませつつも快く振る舞おうとする両親。その表情は皮膚に食い込んだ棘みたいに胸をチクチクと痛めつけていた。
「先月増やしてもらったばかりだし……実家そんなに裕福じゃないから」

彼は無言だ。
事を終えた後の烈久は百永美に目もくれない。毎回そうだった。寂しくもあるが百永美は彼の横顔が嫌いじゃない。ニタニタと愛想笑いを浮かべていた影沼洋一と比較し、やはり彼のことが好きなのだと実感する。
「ねえ、それより聞いてよ。私の担当になった影沼って人なんだけど。四時に待ち合わせだったから、そろそろ来るかなってベランダから眺めていたの。そしたら一階の大鳥さんと揉めてたり、安っぽいママチャリに二重ロックしてるの。誰も盗まないよ、あんなの」
ふうん、と烈久は興味なさそうに返事する。

「変な奴だったよ。部屋じろじろと見てさ、気持ち悪かった」
「なんだよ、家に上げたのかよ」
烈久の発した低い声に百永美は反射的に硬直した。右膝が疼く。
「今度から外で会えよ」
それ以上に責める気はない様で、彼は視線を携帯の画面へ戻す。
百永美は硬直から解放され、うんと答えた。

「それでなに話したんだ」
「住所とか生年月日とか。他には市役所へ手続きする書類の説明とかだったよ。早く帰ってほしいから書こうとするのに、これが仕事ですからってウザかった。そうそう、それがさ笑えるんだよ。影沼って眼鏡かけてるんだけど、それ外して、自分が苦しんででも恋愛を支援するためにいるんです、みたいなこと言ってさ。ナルシストだよ、絶対」
烈久の口から煙が洩れた。「なんだそいつ。変わってるな」

「そうね」フフフと笑いながら彼の背中に彫られた三面六臂の阿修羅を指先でなぞる。「それに御守に見憶えがあるなんて言うの。適当な奴」
「バッグにつけてるやつか」
百永美は頷いた。
「お前に気があるんじゃないのか」
「馬鹿言わないでよ。あんなダサいの、想われてるって考えるだけで寒気がする」両肩を抱えながら彼に寄り添った。
「そういや……バッグ替えても、あれはつけ直してるよな。なにかあるのか?」
やっと向けてくれたまなざしは疑惑に満ちたものだった。身体がまた強張った。
「ううん。ただ気に入ってるだけだよ」
そう言うのがやっとだった。

 

『おかえんなさい、ラブマネさん』その3へ続く

オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その3
オリジナル小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その3宮比ひとしのオリジナルの小説『おかえんなさい、ラブマネさん』その3。恋愛支援専門員(通称ラブマネージャー)である青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。...