こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その9を紹介します。
おかえんなさい、ラブマネさん その9
恋愛保険の相談窓口となる恋愛支援専門員(ラブマネージャー)の青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。
登場人物の紹介
影沼洋一・・・美鷹恋愛支援センターに勤務する新人ラブマネージャーであり、本作の主人公。
野山愛子・・・影沼洋一と同棲中の交際相手。
花岡百永美・・・影沼洋一が担当する女子大生の利用者。
富樫烈久・・・花岡百永美の交際相手。
大空夏樹・・・影沼洋一が担当する金髪ギャルの利用者。
坂本浩介・・・大空夏樹の交際相手。
濱崎極・・・影沼洋一が担当する定年退職した男性利用者。
濱崎弘子・・・濱崎極の妻。
山田直也・・・影沼洋一が担当するオタク青年の利用者。
中谷舞・・・靴屋『エムメス』の女性店長。
四谷高夫・・・美鷹恋愛支援センターの所長。
一ノ瀬友子・・・影沼洋一の世話を焼く中年上司。
六本木美加・・・影沼洋一の先輩ラブマネージャー。
新田貴彦・・・元諏実高校野球部の男性。
新田伸枝・・・新田貴彦の妻。
前回までのあらすじ
花岡百永美の痣は、交際相手である富樫烈久からの暴力が原因と打ち明けられた影沼洋一。
縁を切るように説得するも、百永美は頑なに拒む。
そして、疲労感から毎晩帰りが遅い野山愛子と口論となり、会話の流れで携帯電話を覗き見したことがバレてしまう。
アパートを出て行ってしまった愛子が向かった先は、新田貴彦の自宅だった・・・
十一月二十七日 日曜日
「解約の手続きをとってほしいんだ」濱崎は沈痛な顔つきで言った。
洋一はいつもの客間に招かれ、座ってすぐの出来事だった。予期していたものの実際に面と向かって言われるとやはり戸惑ってしまう。
眉は垂れ下がり、権威の象徴だった白髪は老いを感じさせた。「もう私には必要なくなったんでね。知っているだろう? 家内に離婚を切り出されたんだ……影沼くんも人が悪いな」責めるものではなく嵐が過ぎ去ったかの穏やかな口調だった。
タイミングを計ったように鹿威しが鳴り渡る。
「話し合われたんですね」洋一は言った。
「話し合うもなにも数年前から決意していたの一点張りでね。とりつく島もないよ」しょんぼりとした笑みを零した。「まあ、きっと私も悪いんだろうがね。来る日も来る日も仕事に明け暮れて家内の気持ちに全く気づけなかった。いや、気づこうとしなかったんだよ。だからこんな結果になってしまった。この歳になって独り身になろうとは……情けないことだ」
洋一はすくっと立ち上がった。「奥様はどちらに」
「奥の台所で茶を沸かしているんじゃないかな」濱崎は不思議そうに洋一を見上げた。
襖を開くと、戦国武将の亡霊がのり移ったかの如く、一直線と伸びる廊下をずかずかと大股で歩き出した。突きあたりの暖簾を払い退けると、そこに盆に急須と茶菓子を並べる弘子がいた。側近に謀反を起こされたように仰天する。
洋一は膝をつき、床に額を押しつけた。「お願いします! 離婚を考え直してはいただけないでしょうか」顔を上げると、彼女は睫毛を伏せ「やめてください。もう気持ちは固まっています」と呟いた。
「お願いです。話だけでも」再び、頭をこすりつけ懇願した。
「そんなことされても困ります。私からお話しすることはなにもございません。松岡さんには前々から相談していますし手続きも済んでいます」
「頭を上げてくれ、影沼くん」駆けつけてきた濱崎が肩に手をやった。
洋一は訴え続けた。「奥様の心労はお察しします。こんなことご本人の前で言うのは恐縮ですが、濱崎さんと電話すれば咳払いひとつにキリキリ胃が痛み、お宅へ訪問すれば緊張から吐き気すら催すのです。失言してはいけない、失敗してはいけない、いつも身の震える思いですよ。気を損なうと烈火の如く怒りますからね。けれども、それは私の不注意なのだから致し方ありません。濱崎さんは厳格な方です。きっとご自身も熱意をもって職務を遂行されていたのでしょう。そしてそれは一途に奥様のため、家族のためではないでしょうか? 以前、濱崎さんはこう言ったのです。伊豆旅行は妻へのお礼なんだって。仕事ばかりでどこへも連れて行ってやれなかったから、って。奥様のことを真に想っていなければ伊豆旅行なんて思いつきません。きっとただすれ違っていただけじゃないでしょうか」
弘子はゆっくりと頭を振った。「ただ? ただで済む問題でしょうか。すれ違いの連続が大きな溝となって、もう修復不可能なところまできているの。影沼さんはまだお若いからきっとまだわからないでしょうけど。私だって主人が仕事で大変だというのは重々承知していましたし、懸命にそれを支えてきました。でもね……そんなことは関係ないの。所詮、仕事で忙しいなんて言い訳なんですよ。話し合う機会はいくらでもあったわ。休日だって接待ゴルフを断ることだってできた、庭の芝刈りを中断することだってできた。家族を蔑(ないがし)ろにしていたの」
「そんなことはありません」
「影沼さんが……いえ、世間がどう思おうと私がそう感じてきたということは揺らぎようのない事実なの。そんな思いを抱きながら二十年家事と育児に明け暮れてきた。それを主人はさも当たり前のことだとばかりに見向きもしなかった」
「その気持ちはちゃんと伝えしましたか? お伝えしなかったのなら奥様にも責任があるのではないですか!」
弘子の眉間に一筋の深い皺が刻み込まれた。「なんと言われようと結構です」コンロの薬缶を隠すように彼女は背を向けた。
「夫婦だからと言って以心伝心できるわけではありません。口にしないで通じ合えるなんて夢、幻想、御伽(おとぎ)の世界ですよ」
濱崎は言った。「もういいんだ、影沼くん。こんな私のためにこれ以上頭を下げてくれないでくれ」
「それは本音でしょうか」
え、と彼は声を洩らした。
「離婚したらもう元には戻れないのですよ。本当に、もういいのですか」
濱崎と弘子はうつむいた。
「幼い頃に両親が離婚しました。それ以来二人は会うことも電話することもしていません。僕の携帯には二人とも割とこまめに連絡をくれます。本当に些細な会話ですけどね。体調や仕事振りを訊ねてくるのですが最後には必ずこう聞くのです。母さんは元気か、父さんは元気かって」洋一はすうと溜息を吐いた。「お互いに連絡を取り合えばいいのにそれはしないんです。僕はうんざりしながらも、こう思うんですよ。両親は今でも想い合っているんだなって。勿論、離婚した方がいいケースもたくさんある。けれどそうでない場合だってあるのです。一時の気の迷いや喧嘩のせいで別れてしまって後悔することだってあるのです」
二人は微動だにせず、ただ彫像のように佇んでいた。薬缶の蓋がカタカタと震え、その振動が肌につたわる感じがした。薬缶の注ぎ口から蒸気が吹き出し甲高い音を立てる。彫像だった弘子は魂を吹き込まれたようにはっとし、ガスコンロのツマミを捻った。
「二人で話せないだろうか。ラブマネを通してでなく、二人で」
濱崎の言葉に弘子はゆっくりと顎を引いた。
上がり框に腰掛けて靴を履く洋一を名残惜しそうに濱崎は見送っていた。
「お茶ぐらい飲んでいったらどうだね」
「いや結構です。それよりも奥様への非礼の数々、大変申し訳ありませんでした」
「気にしないでくれたまえ」
洋一は背筋を伸ばし「お邪魔しました」と戸を開くと、彼は小さく咳を払い呼び止めた。いつもの凛々しい眉に気迫のある眼光を宿している。
「ありがとう。影沼くんが私のラブマネで良かったよ」
予期せぬ言葉に洋一は怯んだ。ひどい不意打ちだ。
「ところで、付き合っている女性はいるのかね?」
洋一は「へ」と口を開いた。
「影沼くんに彼女はおるのかね、と聞いとるんだよ」
質問の意図をつかめぬまま「お恥ずかしい話ですが昨晩別れたところです」と答えた。
「これで一緒にデートしてきたらどうかな」
彼が差し出したのは伊豆の旅行券だった。
ずれ落ちた眼鏡を直しながら言った。「いやいや、別れたんですって」
「別れたって昨日の話だろう。何年も経っているじゃなし、どうとでもなるさ。誠意を尽くしてくれたせめてもの礼だ。受け取ってほしいんだ」
洋一はおずおずとつかんだ、が、すぐさま押し戻した。「これから二人で話し合いをされるのでしょう? まだ旅行が中止になったわけではありませんよ。それに……この旅行券を買った時のお気持ちを大切にしてください」
濱崎は口惜しそうに旅行券をしまうと、棚に飾られた盆栽の葉を数えるように瞼を細めた。「今となって一番大切なものに気づくとは、ほとほと情けない話だよ」
「恋をするのを壮年になるまで延ばしていた者は高い利子を支払うことになる、メナンドロスの言葉です」
くくと笑った。「恋かね、そうかもしれん」
「けれども返せない利子はありません」
洋一は深くお辞儀をして、濱崎家を後にした。
仕事を終えて帰宅すると部屋は真っ暗だった。テレビから洩れる芸人の笑い声も、煎餅の匂いも、おかえりの一言もなかった。当然だ、愛子はここを出て行ったのだから。洋一は椅子に腰掛け、まじまじと部屋を見つめた。休日が書き込まれたカレンダー、二日間しか世話をしなかったモンステラ、滅多に読まない料理本、よく履いていた色褪せたハーフパンツ、彼女の名残がいくつもあった。当然だ、愛子は昨日までここで暮らしていたのだ。それにも関わらず今までとは全く異質の空間にいるかの気分だ。
ここで愛子と暮らしていた? 自分と? 嘘みたいだ。以前にも感じたことがある。いつだったろう。ひどく前だった気がする。眼鏡をテーブルに置き、親指でこめかみを押さえると記憶が仄かに浮かび上がってきた。
あれは両親が離婚して数週間後のことだった。小学校から帰ると誰もいなかった。それまでも母は勤めていたものの、下校時刻までには切り上げ、必ず出迎えてくれていた。下校に合わせて働いていては到底生計が成り立たなかったのだ。そう前もって説明を受けてはいたが、いざ一人になると妙な心境に駆られた。ランドセルを置くと、小さな孤島にとり残されたように膝を抱えぽつんと座った。父も母もいないことが不思議でならなかった。父が吸った煙草の匂い、赤マーカーでチェックした競馬新聞、オイルの沁みついた作業着がそこに残されていた。ひとつひとつに宿る思い出がとめどなく押し寄せてくる。瞼を閉じても、ざらついた手の温もりや、優しいまなざし、笑い声がそこには残されていた。
あの感覚にそっくりだ。でも、いつかは慣れるだろう。あの頃みたいに。
瞼が重い。意識が遠のく。ひどく眠たかった。洋一は何も口にせず、風呂も入ることなく、布団に潜り込んだ。
『おかえんなさい、ラブマネさん』その10へ続く