こんにちは、宮比ひとしです。
オリジナル小説『母とのシエスタ』その5です。
僕は玄関扉を閉めた。
静かだった。ハンマーを叩きつける音が響いたが、ドリル音に比べれば小鳥の囀りのようにささやかなものだった。これで母も安らかに眠ってくれるだろう。僕はなんだかいい気分になった。こんなに心が曇りなく晴れわたるのは久々のことだった。
僕はリビングを覗いた。
母は寝ていなかった。
「まだ眠れないのかい?」僕は訊ねた。
返事はなかった。母は横になった姿勢を崩すことなく、じいっと僕を睨みつけた。
僕は途端にがっかりした。晴天だったのが嘘のように暗雲が立ち込める。もう何もかもが面倒だった。壁を殴りつけた。台所へ行っては、アリストテレスの四原因説が頭に浮かんだ。冷蔵庫から酒を取り出しては、ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』が頭に浮かんだ。
僕はどうしようもない人間だ。
酒を煽りながら今日の出来事を思い返した。割るのが面倒になり、ブランデーをストレートで流し込んだ。焼け爛れるくらい喉元が熱くなった。わからないくらい何杯もグラスに注いだ。そのうちにぼんやりとした。虚空を眺めている。指先は絶えず震えている。だが、これくらいがちょうどいいのだ。いささか取り乱しすぎていたのだ。
僕はそう思った。
どうしようもない僕はそう思った。
先ほど僕が口にしていたのは、ナイト・キャップと呼ばれる、いわゆる寝酒であることを思い出した。ブランデーの分量を少なめにして、もう一杯作った。夜とは裏腹に朝陽を浴びる水面のように揺らいだ。
あいかわらず、母は仏頂面でローソファーに横たわっていた。
「そんな顔しないで。これでも……」
母の肩が呼吸に合わせ、微かに上下していた。
「かあさん」僕は声をかけた。
母は眠っていた。瞼を開けたまま。よく見ると何冊かの本を積み上げて枕にしているではないか。アルパカの枕は、投げつけたのだろうか窓際へ放り出されていた。
なんだよ、と僕は吐息を漏らした。
到底、穏やかとは言い難い母の寝顔を見つめながら、本の背表紙にあるタイトルの一つが眼にとまった。
『ラヴ・ユー・フォーエヴァー』
僕はそれを慎重に抜き取ると、ぺらぺらと捲ってみた。絵本を開くなんて十数年ぶりのことだ。ふと、『ピーナッツ』にこんな一節があったのを思い出した。
安心とは車の後部座席で眠ることで、前の席に両親がいて心配事はない。しかし、いつまでも続かない。きみは大人になるから。もう決して安心して眠ることはできない。
「大袈裟だな」
別にティーンエイジャーだからって窃盗するわけではなかった。
僕は母を抱き上げてみた。
想像していたよりも随分と軽かった。
僕が小さい頃、本当に泣きやむまで抱っこしたのかと疑いたくなるほど母は軽かった。
終