こんにちは、宮比ひとしです。
この記事では、オリジナル小説である『おかえんなさい、ラブマネさん』その5を紹介します。
恋愛保険の相談窓口となる恋愛支援専門員(ラブマネージャー)の青年が、個性豊かな利用者の恋愛支援に奮闘するラブコメ小説となっています。
おかえんなさい、ラブマネさん その5
登場人物の紹介
影沼洋一・・・美鷹恋愛支援センターに勤務する新人ラブマネージャーであり、本作の主人公。
野山愛子・・・影沼洋一と同棲中の交際相手。
花岡百永美・・・影沼洋一が担当する女子大生の利用者。
富樫烈久・・・花岡百永美の交際相手。
大空夏樹・・・影沼洋一が担当する金髪ギャルの利用者。
坂本浩介・・・大空夏樹の交際相手。
濱崎極・・・影沼洋一が担当する定年退職した男性利用者。
濱崎弘子・・・濱崎極の妻。
四谷高夫・・・美鷹恋愛支援センターの所長。
一ノ瀬友子・・・影沼洋一の世話を焼く中年上司。
六本木美加・・・影沼洋一の先輩ラブマネージャー。
新田貴彦・・・元諏実高校野球部の男性。
新田伸枝・・・新田貴彦の妻。
前回までのあらすじ
影沼洋一は野山愛子と過ごす予定をしていたにも関わらず、濱崎極や大空夏樹の業務対応を優先してしまう。
仕事を終えてアパートへ戻ると、疲労から口論となる二人。
しかし、その日は二人が交際を始めて三年目の記念日だったことに気づき・・・
十月二十九日 土曜日
布団から起き上がると愛子の姿はなかった。眼鏡を嵌め、寝室のカーテンを開ける。空はどんよりとした暗雲が垂れ下がっていた。リビングへと足を踏み出すが、やけに部屋が広く、一向に距離が縮まらない。
一体どうしたというのだ。
洋一は駆け出す。脂汗が額に滲む。次の瞬間、映画の場面が切り替わるようにリビングテーブルの前にいた。そこに一枚のメモ用紙があった。稚拙な字、愛子のものだ。
『さよなら』
そう書かれていた。読む方向が逆ではないか、字を書き違えたのではないかと何度も読み直すものの、『さよなら』それ以外の文には到底思えない。捲ってみるが裏には何も書かれてない。問い質そうと部屋を見まわすが、やはり彼女の姿はない。洗面台、トイレにもいなかった。愛子の名を叫ぼうとした。が、声が出ない。まるで喉元を塞がれているようだ。汗が滴り落ちる。
突然、地響きがした。
ガラス戸へ駆け寄ると暗緑色の巨大な隕石のようなものが一帯を押し潰していた。ベランダから身をのり出し上空を仰ぐ。足だ。ボジラの足だ。逃げ出さなければと後退る洋一をボジラの鋭い眼光が捉えた。牙を剥き、雄叫びを上げる。視界がぐんにゃりと捻じ曲がった。
枕元でボジラの目覚まし時計が鳴り続け、首には愛子の脚がのっかっていた。背ビレのスイッチを切り、彼女の脚を退かす。気持ちよさそうに口からよだれを垂れ流していた。
洗顔を済ますと、袖を捲り朝食にとりかかった。サンドウィッチ、南瓜のココット、温野菜にアンチョビのディップソースを添えて、フレッシュジュースと昨日の謝罪を込めて豪勢にする。
出来上がるが愛子が起きてくる気配はなかった。カレンダーに目をやると、二十九日に赤丸はなかった。洋一は振り替えているので休日であるが彼女は出勤のはず。
『ニッポンの朝』が終わりかけた頃に、彼女は大欠伸をかき起きてきた。
「おはよふわああ」
「ああ。それより仕事間に合うのかい」
瞼をこすりながら愛子は時計を見る。十時半をまわっていた。ムニャムニャとはっきりしない声で「慌てない慌てない。一休み一休み」と椅子に腰掛けた。くたびれたTシャツを引っ張り上げ、腹を掻く。いい加減捨てればいいのにと思うが、使い古したシャツの方が肌に馴染んで着心地がいいそうだ。
「大丈夫なのかい?」
「だいじょうブイ」朝食を目にするや、ぺろりと舌を出し「わお、ホテルのご飯みたい。ありがとね、いただきまーす」と両手を合わせる。口をゆすぐこともなく食らいついたかと思うと瞬く間に平らげてしまった。するとエンジンがかかったのか慌ただしく身支度を整え「行ってきます」と勢いよく飛び出していった。
あっという間に小さくなる彼女を階段の踊り場から見送り、安堵の息を洩らした。
昨晩の出来事はやはり自分に非があったと反省し、贈物を探すことにした。美鷹駅前のショッピング街に赴き、ショーウィンドウの洋服やアクセサリを凝視するが、どれもピンとこなかった。そもそも愛子は衣類に無頓着だし、リストバンド以外の装飾品を身につけていた試しがない。
一体何を送れば良いのか皆目見当がつかない。洋一は頭を悩ませた。単純に喜びそうなのは食べ物だがいくら何でも味気ない感じがした。花束はどうだ。いやいや。モンステラでさえ枯らしかけるのだ。花を愛でる心があるのか、あったとしても世話するとは思えない。彼女にとってためになるものがいいのではなかろうか。思考を巡らし歩いていると、『エドワード・シザーハンズ』なる看板を掲げた美容院が目についた。
ちょうどいい。前髪が眉毛にひっかかり気になっていたのだ。散髪しながらじっくり考えることにしよう。自動扉を抜けると、蒼白い照明に薄らとスモークがかかり、氷像のようなオブジェが並ぶ瀟洒(しょうしゃ)な内装となっていた。受け付けをすると奥の美容椅子へと案内される。ウニみたいな髪型の男が無数の鋏を操りながら「いかがなさいます」と訊ねるので前髪を揃えるよう注文した。
カットを終えると、くるりと椅子が反転し背もたれが倒れる。目元に蒸しタオルをかぶせられシャンプーしてもらっていると隣から女性の笑い声が聞こえてきた。店内には粉雪が舞うかの控えめなオルゴールが流れているだけだったので彼女の声はよく通る。酒やけしたような嗄(しゃが)れた声だった。
「それで先週、デート予定してたんですけどね。アイツったら待ち合わせ時間に来なかったんです。あ、痒いところないですか?」
「大丈夫です。彼氏さんなにかあったんですか」
どうやら嗄れ声の女性が店員のようだ。
「私もすぐに連絡すれば良かったんですけど、もしかして仕事が長引いてるのかと思って待ってたんですよ。しかも外で」
「偉いですね。私ならすぐ帰っちゃうかも」
対象的に話し相手である女性客の声は粉雪に埋もれてしまいそうなくらいかぼそく、耳を澄ませねば聞こえない。しかし、感情のこもった相槌に気をよくした店員は軽快な口調で続ける。
「三十分待っても音沙汰ないからさすがの私も痺れ切らして連絡したんです。そしたら、アイツったらなんて返事してきたと思います?」
「なんですか、なんですか」
「忘れてただって! 信じられます?」
女性客は信じられないと同調し「ひどいですね」と付け加えた。
「で、いつ来れるって聞いたら、もう友達と呑んでるから無理だって言うんですよ。私ムカついちゃって着信もメールも全部無視」
「それから連絡とってないんですか?」
「アイツ無視してるのにしつこく電話してくるわけ。で、昨日の晩にそろそろ許してもいいかなって電話でたの。そしたら……」彼氏の真似をしてか、店員は一層声のトーンを落とした。「今週一度も洗濯しないまま仕事着使ったんだけどいつ来てくれるの」
女性客が驚きの声を上げる。多少芝居がかっていたものの、昂ぶる店員の感情はピークへ達し、「私もビックリですよ! てっきり謝ると思いきやそんなことですよ。で、忙しいから来週まで行けないって言ってやったの。そしたら情けない声でそんなの困る、だって」と言った。
「わかるわかる。私の彼も家事全くしないから洗濯機のまわし方も知らないんですよね」
わかるわかる。洋一は聞き耳を立てながら、ぐうたらな彼女を持つ身として同感できた。
「そうなんですよ。結局同情して洗濯しに行っちゃったの。そしたら、アイツ鼻がカサカサで私に会えないストレスと睡眠不足のせいだって。ろくにご飯も食べていないみたいだったから一緒にコンビニ行って、ちゃんと食べなきゃダメだって言ってやりましたよ」
「優しいなあ。でも彼氏さんに頼りにされているんですね」
その後は惚気(のろけ)話へと移っていった。一連の流れから、この女性客の方が自分よりも余程恋愛支援専門員に向いているな、と気が重くなった。
「はい終わりました。花岡さん、どうぞこちらへ」
花岡……?
思わず起き上がる。洋一の髪を洗っていたウニ頭の店員がヒイッと悲鳴を上げた。女性客はまぎれもなく洋一の知る花岡百永美であった。目が合う。かたまっていた百永美は洋一だと気づき警戒をといた。
美容院を出ると正午をまわっていた。傍にあったカフェ『地球屋』のカウンターでコーヒーとサンドウィッチを注文する。土曜日のせいかテラス席まで人で溢れていた。トレーを手にしながらウロウロと席を探していると、百永美が「あそこ空きますよ」と背伸びして言う。予言通り客が立ち去ったので、すかさず腰を下ろす。
自宅でも作れそうだなと、そう期待せず海老とアボカドのサンドウィッチを洋一は頬張る。むむっと唸った。アボカドのクリーミーな味わいが口に広がる。その裏でおくゆかしくも儚げに潜む酸味の正体は何だ。
ペロリ、ペロペロ。
むむふうと唸った。
さらにペロリンペロペロ、ペロペロペロペロペロリンチョ。
「そうか! 正体はラッキョウだ」
百永美は珍獣にでも出くわしたように唖然としていた。隣テーブルから二人組の中年女性がニタニタと洋一を見ている。途端に気恥ずかしくなり、うつむいて眼鏡のレンズを拭いた。
「それにしても、こんなところで影沼さんにお会いするなんて驚きました」
「すみません」聞き耳を立てていたことが疾(やま)しくなりさらに頭を下げる。
「どうして謝るんですか」彼女はくすくすと肩を揺らした。「今日も自転車ですか?」
「ええ、美鷹市内でしたらどこへでも自転車で行きますよ」
彼女は感嘆の声を上げる。「市内って結構広いですよ」
大したことでないことはわかっている、わかってはいるが自身が誇らしくなった。また、そう自信を植えつける彼女に好意を抱かずにはいられなかった。
洋一はコーヒーを口にふくみながら百永美を見た。髪の長さは以前と変わらないが秋を彷彿させる落ち着いたカラーとなっていた。紅茶をひと口飲み、小鳥のようにトマトとモッツァレラチーズのサンドウィッチをついばむ。ただの小鳥ではない。慎ましくもその愛らしさは、鳥貴族によって愛情たっぷりに躾けられた令嬢といったところだ。愛子だとしたら、味噌カツサンドでも注文し、あっという間に平らげたかと思うと皿に零れた味噌ソースを嘗めまわし、べたべたの口元を袖口でぬぐい、あげくにゲップをかますだろう。いやゲップならまだしも放屁かもしれぬ。録画して見せてやりたいよ、品性と可憐さを兼ね備えたこの食べ方を。
「やだ、見ないでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」と百永美は黒々とした瞳を向け、手で口を覆い隠した。
「これは失敬! 僕はただ食べている様子を録画したいと思っただけで……いや、決していやらしい意味ではなく。花岡さんが鳥貴族によって育てられた令嬢のようだと」
「影沼さんってやっぱり面白い」百永美はおしとやかに笑う。
洋一は高鳴る鼓動を紛らわすため話題を変えた。「ああ、そうだ。市役所から連絡はありましたか?」
「はい。来週調査に来るそうです。お手数かけました」彼女はぺこりとお辞儀した。
「我々の職務ですので気になさらず」
「調査ってどんなことを聞かれるんでしょうか。ちゃんと答えられるか不安です」右肩を狭め、たいそう重苦しく言った。
「恋愛支援専門員に委託することもありますが、新規は専門の認定調査員が派遣されますので安心してください。主に花岡さんの恋愛観や男性経験を訊ねられます。答え難いとは思いますが、調査員には守秘義務があり、他言することはありません。また、現在交際している場合は相手の身辺状況も調査対象となります。職業や所得など聞かれますがわかる範囲で構いません。厚生労働省令で定める調査項目は八十八あり、少々骨は折れますが約一時間で終了します。問題を抱えていると延びる場合もありますが」
「問題と言いますと」
「多岐に渡り一概には言えませんが、困難な事例ですと同性問題、心的外傷後ストレス障害、ドメスティック・バイオレンスなどが挙げられ……」
百永美はドメスティック・バイオレンスと呟いた。
「配偶者や内縁相手から暴力を受けることです。それがどうかされましたか」
「なんでもありません」彼女はにこりと微笑み「影沼さんも普段あそこでカットされてるんですか?」と訊ねた。
「たまたまです。本日は交際相手への贈物を求め、はるばる赴いたのです」
「え……?」彼女は目を丸めた。
「え……?」洋一も目を丸めた。
彼女は放心状態のまま紅茶を一口飲み、噎せた。
「大丈夫ですか。どうされました」テーブルに備えてある紙ナプキンを差し出す。
「お付き合いされている女性がいたんですね。ビックリしました、なんだか意外で」
「どういう意味でしょうか。僕が交際していることが有り得ないということですか」
笑顔を務めていたが内心傷ついた。
「ごめんなさい。そういうわけじゃないんです。影沼さんって個性的っていうか、誰かとお付き合いしているのが想像できなくて、つい……あ、プレゼントでしたよね。それでなにを買われたんですか」
「それがまだ購入してないのです。どんなものを渡していいのかわからなくて小二時間ほどさまよっています」
パチクリと彼女の睫毛が瞬いた。
「優柔不断ですよね」自嘲気味に笑う。
「そんなことありません!」百永美は首を振った。「プレゼントは真心だと思います。二時間も悩んでくれたプレゼントだったら喜んでくれるはずです。きっと」
「ありがとうございます。もう少し散策してみます。ところで花岡さんは彼とはどうですか? 交際は順調でしょうか」
「彼ですか、どう……と言われても」百永美は迷いながら「来週カラオケに行くんです」と言った。
「カラオケがお好きなんですね。ちなみにどちらの事業所を利用されますか?」
事業所、と首を傾げる彼女に、カラオケ店のことだと説明した。
「オレンジロードにある『ナイト・オブ・サマーサイド』です」
洋一は手帳に控えておく。「領収証は残してください。還付対象となりますから」
わかりました、と百永美は髪を耳にひっかけ頷いた。蜂に刺されたように左耳が真っ赤に腫れている。
「どうしたんですか、その耳」
彼女はさっと髪を下ろした。「なんでもありません。ちょっと躓いた拍子に壁にぶつけちゃって」
「落ち着いているようですけど、そそっかしいところがあるんですね」
冗談のつもりが、気を悪くしたのか「私そろそろ行かなきゃ」とバッグを肩にかけ立ち上がる。
御守が揺れた。
金色の刺繍が入った御守、やはり見憶えがある。記憶の深淵にライトを燈すよう、いつしかの情景がぼんやりと蘇った。誘導棒を握る凍えた指先、燈籠に霞む白い吐息、境内を行き交う賑やかな声、父の背中。
気がつくと「蜻蛉神社」と声に出していた。「その御守、蜻蛉神社のじゃないですか」
顔を引き攣らせ、百永美はかすかに頷く。
「もういいですか。失礼します」
引き止めてしまったことを詫びる間もなく、彼女は立ち去った。
陽の沈む夕暮、「フンフフフーン、ガーキ大将。テーンカ無敵の男だぜ」と上機嫌に歌い帰宅した愛子に洋一は食事へと誘った。
「食べ物で釣るつもり?」彼女は唇を尖らせた。
「たまには外食でもどうかなと思って。なにが食べたいかな」
彼女は「寿司」と即答する。
「わかったよ。お寿司だね」
「……と、ステーキとラーメン、オムライス、牛丼、パスタ、唐揚、それとケーキに、ぜんざい」彼女は指を折りながら言った。
「わ、わかった。食べ放題の店でもいいかな」
「ガッテン承知の助。でもハンバーグ以外ね」
「どうしてだい。僕が好きなこと知っているだろう? キミは食べなければいいじゃないか」
「とにかくダメなの。見るのもやんなの」
「オーケー。おおせの通りに」
バイキングレストラン『マンナンウォーズ』で愛子は実によく食べた。入店して三十分も経たないうち胃が音を上げ、三プレートに留まる洋一に対し、彼女は神に挑むバベルの塔の如く着々と上積みする。余裕をかましていた店長はみるみるうちに蒼褪め、懇願するようにアイコンタクトを送ってくる。
「あまり食べ過ぎるとお腹壊さないかい」
「このくらいヘッチャラよ。でもそうね……ちまたじゃ腹八分くらいが健康的だって言うしねえ」楊枝で歯をほじくり、腹をさすった。「満足満足。余は満足じゃ」
会計を済ますと愛子の提案でバッティングセンターへやってきた。腰丈の壁とネットで隔てた芝生の奥には近未来の大砲のような面構えをしたピッチングマシンが数台備わっている。彼女は洋一へとヘルメットとバットを手渡し、硬貨を投入する。
「僕がやるのかい」
彼女はネット向こうへと移動し、がんばってと拳を掲げた。
仕方なくバッターボックスに立ち、バットを構える。マシンの放球口の穴が白くなった、と思った瞬間、後方でボールが弾んでいた。
「ほら、よそ見しないで。次のが飛んでくるわよ」
眼鏡をくいっと上げ放球口を眇める。ボールが発射し、またもや気がつくと背後で転がっている。白い残像しか見えない。速度は百五十キロに設定されていた。
「速すぎる。こんなの打てっこない」
「振らなきゃ当たんないじゃない。とにかく振りなさいよ」
白い残像、振る、空振り。白い残像、振る、空振り。一度もかすることなく終了してしまった。
「ヘタッピね。コツ教えたげる」ヘルメットをかぶると、彼女にはサイズが大きくブカブカだった。機械を操作し、同じく百五十キロにする。「ボールをね、ムカつく奴だと思えばいいのよ。バットでぶっ叩いてやるつもりでやんの」
ネット越しに眺めているとピッチングマシンから球が放たれた。愛子は膝を落とし、しなやかに腰を捻る。
「洋一のオタンコナスー!」
叫び声を上げてバットを振りかぶる。小気味のいい音とともに弾かれたボールは一直線に飛んでいった。
「ね?」振り返る彼女の顔は清々しかった。
「なるほど」
バッティングセンターを出ると、愛子は「そろそろ帰ろか」と夜空を仰いだ。
「その前に」洋一は鞄から包みを出した。「これ受け取ってくれないか?」
「なによそれ。プレゼントならいらないって言ったじゃない。本当に気にしてないからいいって」
「義務じゃないんだ。キミに贈りたいから贈るんだよ」
渋々とラッピングを破り、出てきた一冊の本をまじまじと見つめた。「……『ズボラ女子必見! 整理整頓マル秘テクニック術』、なにこれ。しっかり掃除しろってこと」恨めしげに睨めつける。
「この手の書籍ってたくさんあるんだね。すごく迷ったよ。でも、これが一番キミに合っていると思ったんだ。図解や写真が満載でわかりやすいだろう」
愛子はがりがりと頭を掻いた。「まあいいわ……ん、なにこれ古本?」貼りついた付箋を見て不思議がった。
「違うよ、僕がやったんだ。キミのことだから途中で断念するだろう。だから付箋やマーカーで重要な箇所を押さえてあるんだ」
「これ全部、洋一がやったの?」付箋のページを一枚一枚捲っては目を細めた。
「他に誰がやるんだい。ちなみに計百の付箋を使用しているけど重要度に応じて赤、青、緑に分別してある」
「黄色もあるね」
「黄色の付箋は僕のアイデアを盛り込んであるところだよ。コラム程度だと捉えてくれればいいさ。いいかい? 重要なのは赤だ。赤さえ実践すればあの悲劇的な部屋は救われる。でも、このページは黄色付箋だけど参考になるかもしれない。この収納方法……マグネットとサランラップの芯を合わせると使い勝手が増すと思うんだ」
「どれどれ」彼女は街燈を頼りに覗き込む。「これ模様じゃない」
「僕の字だよ」
「細かすぎて読めないわよ。けど……」彼女は笑みを零した。「けど嬉しいかも」
気づくと愛子の顔がすぐ目の前にある。こんな間近で彼女の顔を見るのは久しくなかった。月光を帯びて揺らぐ泉のように瞳が神秘的に煌めく。洋一は森林の奥地で秘境を発見したみたいに胸が高鳴る。
高鳴る? 緊張しているのか。おいおい本当かい。
視線が交わると愛子は照れくさそうに目を逸らした。街燈により橙色に染まっているだけなのだが、それは彼女の身体から発せられる幻想的な光のようで泉に棲む妖精を連想させた。彼女は口を噤み、瞼を閉じている。
ひらひらと舞い翅を休めようとする蝶のように、洋一はゆっくりと唇を近づける。
重なりかけた、その時、携帯電話の着信音が鳴った。
愛子のズボンポケットからだ。ごめん、と謝り少し離れたところで電話に出る。チラチラとうかがいながら小声で話する。
通話を終えた彼女に洋一は訊ねた。「誰だい」
「ん……別にいいじゃない」
「どうしてだい? 言えない相手なのか」
「なにそれ」彼女は鼻から息を洩らし、真っ暗な空を見やる。さっぱり解けないテストを前にして憂鬱そうに窓から空を見上げる学生のようだった。そして、とりあえず思いついたから記入しておこうかといった具合で答えた。「部活の先輩よ」
「部活の先輩がなんの用だい」洋一は即座に訊ねた。
「なんだっていいじゃない」
「どうして言えないんだ。疚しいことでもあるのか」
「疚しいことなんてないわよ。貴彦とはそういう関係じゃないんだって」
「たかひこ……電話の相手は男なのかい。なぜ男がこんな夜中に電話してくるんだ。どうしてか納得がいくように説明しておくれよ」
「もううるさい! なぜなぜ、どうしてどうして言わないでよ。このドシテドシテ虫!」
「なんだよ、そのドシテドシテ虫って」
「もうあたし帰る」
呼び止めるも彼女は駆け出し、闇夜に溶け込んでしまった。それをぼんやりと見つめ、どうしてこうなるんだよと呟いた。
『おかえんなさい、ラブマネさん』その6へ続く