「付箋×眼隠し×ハミガキ×信号=ハミガキ刑事」
今朝方、G県G市N川の堤防下の河川敷にて男性の変死体が発見された。
男は頭部を強打しており、さらに生命を引きずり込む暗闇のように、顔面にはぽっくりとした穴が二つ開いている。眼球が深く刳り貫かれていたのだ。
近くに凶器となるものは見つからず、あったのは何の変哲もない木の枝だけだった。
ほどなくして、眼球が見つからないことから『眼隠し事件』として捜査本部が設立された。
去年、刑事部に配属されたばかりの私にとって、このような遺体を目にするのは初めての経験だった。
私は眉をしかめながら、手の甲で汗を拭うと、胸元から手帳を取り出した。
緑色の付箋を貼り付けたページを開くと、男の特徴を書き記していく。赤色は人間関係、水色は凶器といった具合に何十色もの付箋を使い分けていた。
「付箋の田口」
つんとした口髭を指先でさすりながら肥下警部が歩み寄ってきた。
私が敬礼すると「猟奇的な殺人事件に難色を示した本庁が、ハミガキ刑事を要請したらしい」と、いつになく緊張した面持ちで言った。
私はハッと瞼を見開くと、手帳に唯一貼り付けられた虹色の付箋に目を落とす。
そこには刑事部に配属されたばかりの頃、噂で知った伝説の刑事『ハミガキ刑事』について書き留めてあった。
通常の事件では派遣されることがない機密の特殊刑事であり、ハミガキすることでどんな難事件も、たちどころに解決してしまうのだ。
風が吹いた。
周りにいた刑事や鑑識の視線が一点に注がれ、静まり返る。
真夏にもかかわらず、トレンチコートに身を包んだ男が堤防坂からゆっくりと降りてきたのだ。
彼の胸ポケットに刺さった金色の万年筆が、太陽の光を反射しキラリと輝いた。
その異様なその姿に私は固唾をのみ、そして直感した。彼がハミガキ刑事だと。
表情を変えることなくハミガキ刑事は遺体に一瞥くれ、「チミィ!」と、声を張り上げた。
その声が肥下警部の体内を駆け抜けたように背筋がしゃんと伸びる。
ハミガキ刑事は胸から万年筆を引き抜き、くるくると回したかと思うとピタリと止め、肥下警部に向かって突き出した。
髭を押し上げるように肥下警部が口を開きかけると、ハミガキ刑事はズカズカと歩み寄り、彼をすり抜けた。
そして、傍らで身を潜めていた私の前で止まり、「若いチミィだよ」と言い放った。
彼が握っていたのは万年筆ではなく金のハブラシであり、鼻先にその毛先がチクチクと触れる。
「青、黄、赤と言ったら何だね」
突然の質問に戸惑いながらも「し……信号ですか」と答える。
みるみるうちにハミガキ刑事の眉間に皺が寄る。コートを勢いよく広げると、裏ポケットには絵の具のような青、黄、赤のチューブが備わっていた。
「チミィ! 青、黄、赤と言ったら、私が今お気に入りのハミガキ粉じゃないかね! ブルーハワイ、バナナミント、レッドホットチリペッパー味に決まっているだろうがね」
知らないですよ、と嘆きたくなるのを必死に堪えると、彼は続けていった。
「……で、どれがいいかね」
「どれ、といいますと?」
肥下警部がそっと耳打ちする。
「付箋の田口、よく考えてから答えるんだ。ハミガキ刑事の気分通りの味を選べば事件は即解決。外れると機嫌を損ね帰ってしまうばかりか、証拠物品にうがいを吐き捨て嫌がらせをする始末だ」
「じゃあ、答えないで地道に捜査した方がいいんじゃないですか?」
「それは駄目だ。質問を拒否すると、必ずその事件は迷宮入りになると言われている」
「そ、そんなぁ」
「チミィ! 早くしたまえ」
一体どれが正解なんだ。青か、いやブルーハワイというよりか芋焼酎派な顔だ。ではバナナの黄か、そろそろ小腹の空く時間帯だしな。それとも……ちらりとハミガキ刑事を窺うと、待つことに業を煮やしたせいで唐辛子のように真っ赤に変色している。
早く決めなければ。脳味噌をフル回転させると、虹色の付箋が頭を過った。
私は指を三本立てて、「み……みっつ」と言った。
ハミガキ刑事の顔が歪む。
「三つの味を混ぜ合わせてみたら、どうでしょうか」
「無茶な」肥下警部が頭を抱えて叫んだ。
ハミガキ刑事は無言でハミガキ粉を捻り出す。ブラシに乗った三色は、金色の信号機のようだ。
はむりと咥えると、瞼を閉じながらゆっくりと左右に動かす。
それをみな無言で見守っていた。
こめかみを押さえながら「む、むむう」と悲痛な表情を浮かべると、ガクリと膝が折れた。
やはり、私の判断は間違っていたのか。
項垂れたそのとき、しゃこしゃこと歯とブラシのすれる音が耳に響いた。
腕の動きは止めていない。そればかりか徐々にスピードを上げ、より速く、より激しくこすりだした。
「まさか」肥下警部が吠えた。
すぽんとハブラシを抜くと同時に、ハミガキ刑事は蟹みたいに泡を吹き出し、白目を向いていた。
「み、水」
慌てて水を差し出すと、必死にうがいした。
一息つきハンカチで口元をぬぐうと、何事もなかったように「デリシャス」と呟いた。
周囲から歓声が上がると、彼はハブラシを空に向かって放り投げた。弧を描いて草むらに落下する。
「真実はあそこにある」
私は思わず駆け出し草原を掻き分けると、なんとハブラシが地面に突き刺さり、そこに眼球が二つ転がっていた。
込み上げる吐き気を堪えながら、手袋をはめて摘み上げる。違和感があった。よくよく凝視すると眼球はプラスチックで出来ている。
事件はこう結論付けられた。
盲目だった男は散歩の途中で足を踏み外し、堤防から滑り落ち、頭部を打ちつけた。
その衝撃で義眼が転がったのだ。
木の枝を頼りに普段から使用していたことも近所からの情報で裏づけられた。
私は男に眼球を押し込むと、暗闇は塞がっても戻らない生命に悔やみつつ、手を合わせた。
そんな私の横で、ハブラシ刑事は夕暮れの赤みを帯びたハブラシをじっと見つめている。
すると、男の口を開き、ハブラシを突っ込んだ。
「ちょっと」
止めに入ろうとする私に肥下警部がそっと手を添えた。
「何で、ハミガキ刑事が伝説だと謳われるか知っているか」肥下警部は囁くように言う。「それはどんな難事件でも解決するから……付箋の田口、しっかり見ておくんだ」
うろたえる私を余所に、ごしごしと磨いていく。
「チミィ、虫歯で死ぬこともあるなら歯磨きで蘇る命だってある。私はそう信じている」
事を終えると、ハミガキ刑事はトレンチコートをなびかせ去って行った。
「ハミガキ刑事は事件そのものを解決してしまうんだ」
肥下警部がそう呟くと、男はこほりと息を吹き返した。
終
『ハミガキ刑事』は「付箋」「目隠し」「ハミガキ」「信号」の4つのお題を元に作成した短編小説となります。