オリジナル小説

『太陽が眩しかったから』前編

『太陽が眩しかったから』前編
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茉莉まり 

 

引き千切られたカーテンの隙間から太陽が顔を覗かせていた。

溌溂とした少女の笑顔のようにきらきらと輝く太陽。

 

そんな無垢な笑みで見るな。

 

殺人を犯した男、法廷、沸き立つ悲鳴……不意に脳裏に浮かぶ。

それは高校生の頃だったかしらに何気なく読んだ小説のシーン。フランスの作家だった気がするが、作者も題名も思い出せない。

その物語で男は殺した動機を問われ、太陽のせいとした。

 

当時の私は全く共感できなかった。

人を殺めようとする気持ちを理解できないわけではない。少なからず殺意を抱いた経験だってある。

もしも、私が殺人を犯すとするならば確固たる信念により遂行するだろう。逆に言うならば、明確な動機が存在なければ殺意は芽生えたりはしない。

 

そう思っていた。

 

急かすように鳴り続けるインターホン。

殺せ、殺せ……脳内に指令を与える。殺意は突如として湧き上がる。今の私のように。

 

あえて動機を当てはめるとするならば嫉妬になるのだろうか。

しっくりとこないが、冷静に考える間も無く包丁に手を伸ばしていた。

裁判で訊ねられたら、こう答えよう。

 

――太陽が眩しかったから。

 

今の私には題名も思い出せない小説の主人公の気持ちが少しだけ理解できた。

 

 

炎天下の中、近所のスーパーで買い物を済ませた私は201号室にやってきた。

同じアパートに住む真佐人まさとの部屋だ。

 

肩まで伸びた黒髪は陽射しを一心に受けたせいで、熱が籠っている。

滴る汗をハンカチで拭うと、買い物袋とバッグの取っ手を肩に掛け直しながら、電気メーターの裏に手を伸ばした。

手の平をずらしながら探ると、じんと熱くなった金属が指先に当たる。

摘まみ出したのは、マグネットクリップに挟まれた鍵だ。

 

――電気メーターの裏にいつも置いてあるから、俺がいないときはそれ使って。

――うん。分かった。じゃあ、来週ね。

 

先週、真佐人との電話で合鍵を教えてもらってからというもの、毎日通っていた。

彼が仕事から帰宅するのは夜の十時頃。

翌日の業務に差し支えがあってはいけないと、長居はしないように気遣っていた。日課となっていた掃除を終えると、彼に会うこともなく自分の部屋に戻ることにしている。

 

あれから連絡はとっていなかった。

お邪魔すると、冷蔵庫の食材は減っているし、入浴した痕跡もあるので帰っているのは確かである。

それならば、一言くらい礼を述べても良さそうだが、頼まれてもいないことを勝手にやっているのは私であるため、文句は言えなかった。気づいていないのか、感謝するのが恥ずかしいのか。

 

どちらにせよ、愛おしいことには変わりはないのだが。

 

二十年弱もの間、男性と交際することもなく、そういった恋愛ごとは私にとって漠然と煩わしさの対象でしかなかった。しかし、彼と出会ったことで、内に秘めた女の部分や母性本能が露わになり、戸惑いつつも心がときめいていた。

 

鍵を回し、キッチンに向うと、買い物袋からトマト、牛肉、人参、玉葱を取り出す。最後に缶ビール。

最近、ストレスが溜まっているのか、ビールの減りが早い。

私には話さないが、いろいろと悩みを抱えているかもしれない。いつか彼から打ち明けてくれれば、と願いながら冷蔵庫に缶を並べていく。

 

今日は真佐人の好物であるビーフシチューを作るつもりだ。男性に手料理を持て成すのは、生まれて初めてである。

袖を捲り、まな板、包丁を手元に寄せる。

不安もあるが、彼が鼻をぐりぐりと擦りながらシチューを口にする光景が浮かんだ。嬉しいときに鼻を擦るのが癖であった。空想に胸を躍らせながら玉葱の皮を剥いていく。それを放り込もうと、ペダルを踏みゴミ箱の蓋を開けると、加熱ゴミに混じりペットボトルが顔を覗かせていた。

 

「もう仕方ないんだから」

 

私は頬を緩ませ、ペットボトルを別の袋に分別する。

まだあるのではと、ゴミ屑を掻き分けていると、白い封筒が眼に留まった。摘まみ上げ、玄関に視線を送る。再び、封筒を見つめる。フラップの部分が乱雑に破かれており、中身はそのままある。

 

動悸、呼吸苦。

 

私は耐えきれずに手紙を広げていた。

安堵とともに息を整える。手紙というより、広告であった。近所に新しくできたスポーツジムの案内だ。

 

リビングにある時計の短針は「三」を指していた。

肉を煮込む時間は、たっぷりとある。物置から掃除機を引っ張り出し、部屋の整頓をすることにした。毎日しているにも関わらず衣類や菓子の袋が散乱している。

分かっているのかいないのか、真佐人はしっかりと私に仕事を与える。脱ぎ捨てられた衣類は洗濯し、床と掃除機の吸口を擦り合わせるよう丹念に部屋中の塵を吸い込む。

 

片づけを一通り終えると、バッグに手をかけ「怒るかな」と、濃青色のカーテンを中央の膝丈ほどのテーブルに置く。ベランダから燦々と降り注ぐ日光。

真佐人の部屋にはカーテンがなかった。

硝子戸にあててみる。サイズは丁度良い。店内を一時間ほど散策し、彼の好みに合うだろうかとさらに悩み、購入したものだ。

喜んでくれる、喜んでくれないはずがない。

眩しそうに眼を細め、唇から白い歯を溢す真佐人。

 

擦れ違う際に会釈する程度の間柄であった彼を、初めて意識したのは一月前のことだった。

アパートの入り口にある収拾場にゴミ袋を運んでいると、どこかで引っ掻けたのか穴が開き、そこから中身が散らばっていた。どうしたものかと頭を抱えていると、たまたま通りかかった彼がビニールの小袋を取り出し、拾い始めた。

 

――俺もよくやるんです。だから、いつも持ち歩いている。

 

真佐人は、にかりと口元を緩めた。

今にして思えば、彼にしては随分と準備のよいことだが、屈託のない笑顔に頬を紅潮させた私は、頭を下げるのが精一杯でそそくさと退散した。

 

風が舞い込み、カーテンがふわりとなびいた。

元々存在していたかのように馴染んでいる。彼の部屋に私の色が溶け込んだようで嬉しかった。

 

もう一つやりたいことがあった。

カーテンが流れる先にベッドがあり、その脇にある腰丈の棚には卓上鏡とアンティークとして飾ってあるジェンガが置かれていた。そして、隣に並んで立て掛けられたコルクボード。

男友達との旅行や飲み会の写真が、所狭しとピンで留められてある。使用されていないピンを引き抜くと、持ってきた一枚の写真を重ねた。

 

「これは、さすがに怒るよね」

 

眉を八の字に曲げ、未だ見たことのない真佐人の困った顔を想像してみる。

写真には、瞼を閉じ、涎を垂らすあどけない彼の寝顔が映っていた。

 

二日前の朝方、物音で起こさぬようにと、こっそりとカメラのシャッタ―を切った。

朝方といっても七時を回っていたが、仕事の都合上なのか起床するのは遅い。うっかりとフラッシュを焚いてしまい、一瞬半目となるがすぐにまた熟睡した。

 

拳を顎にあて、しししと笑っていると、ふと山の風景写真が眼に止まった。

よく土産屋で販売しているポストカードだが、妙な違和感が胸を撫でる。

風が吹き、カーテンとともに心が揺れた。カーテンの緩やかな波は荒波へと変え、ついには津波を警戒するサイレンが耳に響く。

 

ポストカードを裏返していた。

 

『仕事はどうかな。慣れない土地だけどガンバってる?

あたしと会えなくて体調くずしてるんじゃない?

なんて(笑)

ジョーダンはおいといて、あんまり無理しないでね。紗枝さえ

 

動悸、呼吸苦、頭痛、嘔気。

 

可愛らしいはずの丸文字が、まるで魔女の呪いのように私を蝕む。視界がぐにゃりと歪む。膝が振るえ、思わず屈みそうになるのを棚に重心を預け必死に堪えながらも、棚の引き戸に視線を注いだ。

棚を空けては中身を掻き出し、棚を空けては中身を掻き出す。掃除した床に書類や文具が散らばっていく。

光沢のある白いシートを掴んだ。

 

真佐人と女性が楽しげな表情で様々なポーズをとっている。プリクラであった。ポップ調の赤字で日付が記されている。私と知り合うよりも前だ。大学を卒業、就職し現在のアパートに転居する彼。私が知るのはその程度、過去のことは一切聞いたことがなかった。

 

そして、女性の頭上には魔女の丸文字で紗枝と書かれてあった。歳は高校生くらいか、ショートカットで健康的な小麦肌、太腿を見せつけるようなミニスカートを穿いていた。

 

コルクボードの隣にある鏡の中から、顔面を蒼白にした幽霊のような女が私を睨んでいた。

 

この女はだれだ。

この女は私。

 

ガラスでできた私の仮面が砕け散る。その音が耳を裂き、私は両手で鏡を棚に叩きつけていた。それでも尚、手の平で何度も何度も鏡を打ちつける。

 

紗枝と私は似ても似つかない。

 

鏡にヒビが入り、破片が宙を舞う。だれを映しているのか分からないほどに亀裂が入った頃には、私は息を切らし、手の平は真っ赤に染まっていた。痛みは感じない。

傍に置かれていたのか、人差し指ほどの筒がことりと床に落ちた。拾い上げ、ピンク色のキャップを取り、捻る。ラメ入りのリップクリームが現れた。

以前に同じ物を持っていたが、私には全く似合わなくて捨てた。艶やかでハリのある彼女にこそ相応しい物に見えた。相応しくない私は無情にリップクリームをへし折ることにした。

 

ざざざ。

鼓膜の奥で、電波の届かないラジオから漏れる砂嵐音がする。それに不明瞭な声が交じる。頭の中を乱す騒音をなんとか掻き消そうと集中した。

 

声の主は真佐人だ。耳元で囁く。

 

――電気メーターの裏にいつも置いてあるから、俺がいないときはそれ使って。

 

ざざざ。先週の電話。

 

――分かったわ。じゃあ、来週ね。

 

ここで切ろうとするが、彼の呼吸音は続く。まだ切りたくないのだろうか。私はからかうように言った。

 

――いま、鼻擦ってるでしょ。

――なんでだ。

――嬉しいときの癖だもんね。

 

ざざざ。私はくすくすと笑みを漏らした。

 

――からかうなよ、茉莉。

 

ざざざ。

 

――からかうなよ、茉莉。

 

ざざざ。違う。

真佐人が耳元で囁いた。

 

――からかうなよ、紗枝・・

 

そのとき私は真っ暗な自室でうずくまりながら、受話器ではなく盗聴器を握り締めていた。真佐人が彼女の名を呼ぶ声が鋭い針となし、耳を刺す。それは勢いよく脳内に侵入し、さらには巨大なヘラへと形を変え、ぐちゃりぐちゃりと脳味噌を掻き回す。まるで魔女が大釜を茹でるかのように。

 

気がつくとカーテンを引きちぎっていた。

 

太陽が眩しかった。

きらきらと輝く陽射し。真佐人の隣で太陽のように微笑む紗枝と重なり、憎かった。

私は地に着いているのかいないのか把握できないままの足取りでキッチンに向かった。トマトを手で握り締めると、包丁で突き刺した。どろりと汁や種が溢れ出る。

 

「私の真佐人を……許さない」

 

不意にインターホンが鳴り、身体がびくりと跳ねる。

モニターを覗き込むと写真の中にいた紗枝がそこに映し出されていた。

 

――じゃあ、来週ね。

 

電話で約束した彼女が来た。

私は包丁の柄を強く握った。明確な動機があったわけではない。

二度、三度と室内を駆けるインターホンの音が……殺せ、殺せと背中を押す。モニターでは彼女が尚も太陽のような笑みを照らしていた。私は玄関へと足を踏み出す。

 

ふと、題名も思い出せない小説のフレーズが頭を過った。

太陽が眩しかったから……私は紗枝を殺すことにした。

 

玄関の扉をゆっくりと開ける。それとともに包丁を振り上げた。

驚きのあまりに眼を見開く紗枝。

彼女の悲鳴がアパートに響き渡った。

 

後編へ続く