オリジナル小説

『太陽が眩しかったから』後編

『太陽が眩しかったから』後編
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真佐人

 

「今日の戦利品は今までで最高だな」

 

ビニールの小袋を片手にし、夜の十時を回っているにも関わらず、俺は軽い足取りでアパートの階段を昇っている。廊下の端に201号室の扉が構えていた。

 

もうすでに紗枝は先週教えた合鍵で上がり込んでいることだろう。

途端に家に帰るのが憂鬱となった。

電話で約束したとき、久々に会うことができると気が湧きたった。

しかし、嘘をついていたことを思い出したのだ。部屋を見れば、それが露呈するのは必至。

なぜあんな嘘をついてしまったのか、今も後悔している。急用のため来ることができなくなった、という淡い展開を抱きつつも、ドアノブが回ったので溜息が漏れた。

 

玄関には見覚えのない靴が二足並んでいた。カラフルなスニーカーと白いサンダル、どちらも女性物だ。

スニーカーは紗枝かと推測できるが、もう一つのサンダルは一体誰のだろうか、と首を傾げる。

もしかして紗枝は友達と一緒に来ているのか、それなら一言くらい相談があってもいいのではないかと眉をしかめた。

 

しかし、どうも様子がおかしい。

二人いるにしては部屋が静まりかえっていた。話し声だけでなく物音すら聞こえてこない。疑問を抱きながらも、靴を脱ぎ、足を踏み出すと裏側にがさりとした感触が伝わった。床に眼をやると赤いなにかがこびりついている。

 

液体が固まったようだ。紗枝は昔からそそっかしいところがある。もしかして、料理でも作ろうとして材料を溢したのか。

 

「しょうがない奴だ」

 

くすりと笑いながら、俺は爪先で床に付着したそれを擦った。かりかりと音をたて剥がれる。爪と指の間に入り込んだ赤い粉をまじまじと観察する。

食材というよりか、なんだかこれは……血のようだった。

ただ事ではない、俺の中で警報が鳴る。

 

「紗枝!」

 

叫びながら、俺は爪先で床を蹴った。

なにかが倒れる物音。

紗枝の悲鳴が響いた。

 

「あっ、おかえりなさい」

 

女性が頭を垂らした。

俺は思わず言葉を詰まらせる。途端に力が抜け、ビニールの小袋を床に落とした。それは同じアパートに住む茉莉だった。

なぜ彼女がこの部屋に居るのだ。

そして、テーブルに対面して紗枝が頬を膨らませている。

 

「こら! お兄ちゃん・・・・・があんまり騒がしくするから倒しちゃったじゃない」

 

テーブルの上には、土砂崩れした山のように木の破片が散らばっていた。さらにその横には、ビールの空き缶が置かれていた。どうやら二人で酒を酌み交わしながら、ジェンガを楽しんでいたようだ。

 

「紗枝、勝手にビール飲んで」

「いいじゃない、別にねえ」

 

同意を求める紗枝に、茉莉は小さく顎を引く。

 

「お兄ちゃん遅いから、手作りビーフシチュー先に食べちゃったよ」

 

キッチンから漂うスパイシーな香りが空腹を刺激する。

 

「食べますか?」

 

溢れ出す涎を腕で拭い「あっ、はい」と頷きながら、紗枝の横に腰かけた。

さらさらとした髪を揺らしながら茉莉は手際よく準備する。どういった経緯で二人が仲良くなったか分からないが、二日前に夢にまで現れたほどの憧れである彼女がこのキッチンで料理を持て成してくれる日がくるとは。紗枝が妹であることに心の底から感謝した。

 

「お待たせしました。お口に合うか分からないけど」

 

ビーフシチューとサラダが目の前に置かれた。

 

「そんなことないです! おっ、美味しいです」

「お兄ちゃん、まだ食べてないわよ」

 

口に含むごとに「こんなうまいのは初めてだ」とか「あと三十杯はいける」など、ボキャブラリーの少ない俺の辞書から思いつく限りの賛辞を連ねる。

そんな俺を見て、茉莉はくすくすと笑った。

 

「それにしても茉莉さん料理上手よね」

 

いえ、と謙遜する茉莉。彼女とはアパートの廊下でたまに擦れ違う程度だ。淡い恋心を抱いてはいたものの、俺から挨拶しても俯くだけで嫌われているとさえ思っていた。

茉莉の上品な笑い声、温かな手料理、この空間全てがまるで夢であるかのような感覚に陥る。

 

「白い肌だし羨ましい」

 

紗枝は自身の日焼けした肌と見比べる。

 

「お兄ちゃんの彼女にはもったいないよ」

 

紗枝は誤解していた。茉莉が彼女だったらどんなに幸せだろう。紗枝には会話の成り行きでつい見栄を張り、彼女ができて楽しくやっていると豪語してしまっていた。

 

「もったいないもなにも……俺達」

 

茉莉にとっては迷惑な話だろう。はっきりと誤りを詫びなければならないが、どう説明したものか。

ちらりと彼女を窺うと、直方体のジェンガの一片を口にあて、内緒にしての「しー」の仕草に見えた。紗枝はどうやら気づいてないようだ。

 

振り返れば、茉莉には何度も訂正する機会はあったはずだ。それを黙っていてくれている、話を合わせてくれているのだ。

 

「そうだ! 兄ちゃんの彼女、綺麗な人だろう」

 

すかさず眼球を動かし、茉莉の顔色を確認するが怒ってはいないようで安心する。

 

「聞いてよ。私なんか、ここに着いたとき」

 

紗枝は唾を飛ばしながら下品に笑った。

 

「鍵が開いてるから、てっきりお兄ちゃん寝てるんだろってインターホン連打したの。そしたらこんな美人の茉莉さんが出てくるもんだから思わず叫んじゃった。あっ、あのときは料理の最中だったのにごめんなさい」

 

「気にしないで」と、茉莉は両手を振る。

 

手の平には絆創膏が貼られていた。

 

「怪我ですか?」

「はい、ちょっと」

 

俺が指摘すると隠すように手を膝に置いた。

玄関に付着していたのは、もしかして茉莉の血だったのか。

 

「お兄ちゃんのせいよ」

 

紗枝は責めるように口を尖らせた。

 

「鏡を片づけようとして手切ったのよ。割れたまま仕事行くなんて信じられない。部屋中もぐちゃくちゃにして。あたし、お兄ちゃんが一人で暮らしていくの心配になっちゃった」

 

寝坊したせいで、今朝は慌てていたのだ。覚えはないが、鏡を落としていたのかもしれない。

俺は何度も謝罪した。

 

「いいの。それよりカーテンどうですか」

 

硝子戸にダークブルーのカーテンが取り付けられていた。

 

「茉莉さんのプレゼントだって」

 

挨拶するだけ存在だった彼女が部屋で手料理をもてなしてくれ、まさかカーテンまで頂けることになるとは。

 

どう考えても夢に違いない。

そう、最高の夢だ。

 

「ごめんなさい、勝手に付けちゃって。気に入らないかな」

 

呆然とする俺に茉莉は不安げに尋ねた。

 

「そんなことない! 俺、仕事遅いのに朝日のせいで起きちゃってて困ってたんです。丁度良かった……」

 

しかし、この夢が悪夢と化すことのないよう一つだけ懸念していることがあった。

俺はこっそりとビニールの小袋に視線を注ぐ。

中にはゴミ収集所から漁り出した戦利品、茉莉の使い古したパンティーが入っているのだった。

夜明けを知らせる太陽のようにきらきらと輝く純白のパンティー。

 

もし見つかったら、弁明の余地はない。

そのときは潔くこう答えよう。

 

「太陽が眩しかったから」

 

茉莉はほんのりと顔を綻ばせ、瞳を潤ませる。

そんな彼女の肩を、ぐっと抱き寄せた。