オリジナル小説

『人類最後の男』

『人類最後の男』
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人類最後の男

 

夜の繁華街の路地裏を、一人の男が駆け抜けていた。

まばらな街灯を頼りにして、息を切らせながら、ポリバケツや野良猫を縫うように突き進む。

居酒屋の裏口から、不意に現れた割烹着の女と衝突しそうになり、踏みとどまった。

男の姿を目のあたりにするや悲鳴を上げるので、思わず女を押し飛ばし、さらに狭い通路へと身を滑り込ませた。

 

けたたましいサイレンが鳴り響き、周囲が騒がしくなる。

とめどなく流れる額の汗をぬぐい、周囲を見回すと、建物の隙間にいくつかのごみ袋が積み上げられてあった。

ためらっている時間はない。

 

男はごみ袋を掻き分け、埋もれるようにして屈むと、生ごみや油の入り混じった強烈な悪臭が鼻先をつんざく。

嗚咽を堪えていると、規則的なリズムを刻む幾重もの足音が、まるで地震の如く押し寄せてきた。

とっさに呼吸を殺す。

 

女、女、女。

銃を携えた機動隊が過ぎ去ると、耳をすませ、不吉な足音がないことを確認し、ようやく男はごみから這い出てきた。

安堵の息を洩らし、混乱する頭の整理に努めた。

 

『人類最後の男』

 

妻と冗談交じりで話していたのが数年前。

「久しぶりに電車乗ったんだけど、女性専用の車両増えたわよね」夕食の終わりがけに、ふと思い出したように妻は言った。

「飯屋にレディースセットはよく見るけど、メンズセットは少ない。レディースデーをやってる映画館はよくあるけど、メンズデーは稀。ますます肩身が狭くなる」食べ終えたカレー皿を流し台に運びながら、男は自嘲気味に笑った。

「そのうち、世の中に必要ないからって、男はみんな抹殺されちゃったりしてね」

「まさか」

妻の予感は的中した。

 

「ねえ、もしもあなたが人類最後の男で……残された時間が僅かだとしたら、どうする?」妻は皿洗いをする手を止め、訊ねた。

返答に悩みながらも、無意識のうち、視線は薬指にある結婚指輪へ向いていた。

結婚式はしなかった、というよりも男には金がなくできなかった。

近所にある教会の前で、式の真似事をして指輪を交わした、ただそれだけ。

結婚式も挙げてないし、指輪も安物だったが、文句どころか瞳を滲ませて喜ぶ妻を見て、男は満足だった。

それ以来、一度たりとも離すことなく身に付けた指輪。

今では身体の一部のように指にすっぽりとおさまっていた。

「おまえと一緒にいたい」

「わたしも」

男は洗い物をする妻を後ろから抱きしめた。

 

人類女性化計画。

始まりは、電車、飲食店、トイレなどに女性専用箇所が設けられる程度の実に些細な変化だった。

医学の進歩、精子バンクの普及、産み分けの発達と共に、日曜の朝番組では生物学者が性別の必要性について熱く議論を交わした。

風俗店は規制され、女性への差別発言をする政治家は徹底的なバッシングを受けた。

いつの間にやら、女性議員のみからなる党が政権を樹立していた。

 

政治家、タレント、スポーツ選手、芸術家。

新聞、テレビ、ラジオ、ネット。どのメディアも女性ばかりが溢れていた。

女、女、女。

しだいに、男の誰もが息を潜めた生活を強いられるようになる。

 

その最中、事件は起きた。一人の少女性愛者が十六名もの幼女を誘拐、監禁。それが火種となり、女性擁護推進機動隊なるものが発足した。

「男は下劣で野蛮な生物。男がこの世から消え失せることで、女性は……いや、世界は正しい方向へ導かれる!」

テレビモニターでは、サングラスに軍服姿の隊長は束ねた黒髪を振り乱しながら、真っ赤な唇を尖らせて熱弁を揮った。

 

『人類最後の男』

 

荒々しいプロペラ音にハッとして、男が上空を見上げると、ライトを交錯させながらチョコレートを狙う鼠のように軍のヘリコプターが眼を光らせていた。

 

これ以上逃亡を続ける体力も精神力もないことを男は悟っていた。

男は項垂れながら、黒ずんだ指輪を見つめていると、無性に妻の声が聴きたくなった。

「残された時間が僅かだとしたら……」

男は意を決して、位置情報がバレないようにと落としておいたスマホの電源を入れる。

 

トルルルルル、トルルルルル。

呼び出し音がやけに長く感じられた。

ぷつりと途切れ「あなた、どこにいるの」と、妻の強張った声が耳元に届く。

「最期におまえに会いたい。指輪を交わしたあの場所で」

それだけ伝えると、男はスマホを投げ捨て走り出した。

 

逃げ隠れしながら、なんとか目的の場所に辿り着く。

指輪を交わした教会。闇に浮かぶ厳かな雰囲気はあの日からなにひとつ変わってない。世の中はガラリと変貌してしまったというのに。

 

壊れかけた機械のように軋む足を引きずりながら、男は門に手をかけた。

鉄の格子は、びくりともしない。

考えてみれば当然だ、こんな夜更けに開放しているわけなかった。

疲労は極限まで蓄積し、そんな正常な思考さえ及ばない。

 

まだ来ていないのだろうか。

辺りを見回すと、樹の影に佇む妻の姿を捉えた。

歩み寄ると、緊張した面持ちで眉を顰めているのが分かる。

肩を抱きしめようと、男は手を差し伸べる。

 

その瞬間、巨大な虫のような群れが二人を遮った。

男は息をつく間もなく四肢を拘束され、そこでようやく、どこかしらに潜んでいた機動隊によって取り押さえられていることに気づいた。

「おれが……男が、なにをしたってんだ」抗う気力もなく、男はただ呟いた。

カツリ、カツリ、と地面をこするヒールの音が響き、テレビで観た隊長が現れる。

「あなたが男である、それ自体が罪なの」

隊長は溜息を吐きながら、銃口を突きつけた。

 

『人類最後の男』

 

キャプション『人類最後の男』

女性擁護推進機動隊研究所にて、ホルマリン漬けにされた男を無表情で凝視する妻の元へ、隊長が歩み寄ってきた。

「ご協力感謝します。奥方のおかげで、ようやく捕獲することができました。今はつらいでしょうが、この選択が正しかったと思える日が来ると信じております。そうそう、結婚指輪かと存じますが、こちらはお返し……」

妻は即座に左手で遮った。その指に指輪はない。

「まだそんなの付けてたんですね。棄ててください」

 

唇を歪め、妻は微笑んだ。

「わたしは正しい選択だったと、すでに確信しています。靴下は脱ぎっぱなしで片づけない、食べ終えた皿は水に浸けない。シンクに置くなら洗い物までやるのが当然じゃないですか? 当り前のように家事は全てわたしに任せきり。何度言っても無駄。トイレは汚すし、腋は臭いし、イビキはうるさいし、いつの間にかわたしのことをおまえって言うし、何様のつもりだか。男なんてこの世からいなくなって清々したわ」

 

隊長は一礼し、隊員に妻を送り届けるよう指示し、ひとり自室へと戻る。

鍵を掛け、誰もいないことを念入りにチェックし、ソファにどっかりと腰を降ろして足を投げ出した。

「人類最後の男……か」

そう言ってサングラスを外すと、とうとう耐え切れず笑い声をあげた。

拳を握りしめ、ソファーの上で飛び跳ねる。

真っ赤な口紅を拭い、胸からパットを抜きとる。

「ああ、蒸れる」と、呟きながら長髪のカツラを取ると、スキンヘッドが露わになった。

一息つき、隊長はデスクの奧にしまい込んでいた極秘書類を引っ張り出し、そこに印を押した。

『人類ハーレム化計画』完了。